1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

1月1日 戊申 雨降る
  今日椀飯(匠作御沙汰)。御劔は宮内少輔泰氏、御調度は若狭の守泰村、御行騰沓は
  大和の守祐時等これを持参す。
   一の御馬 相模式部大夫      本間式部の丞
   二の御馬 相模の六郎       橘右馬の允
   三の御馬 上総の介太郎      同次郎
   四の御馬 本間次郎左衛門の尉   同四郎
   五の御馬 越後の太郎       吉良の次郎
 

1月2日 己酉
  椀飯(左京兆御沙汰)。御劔は駿河の前司義村、御調度は玄蕃の頭基綱、御行騰は肥
  後の守為佐。
   一の御馬 北條左近大夫将監    信濃三郎左衛門の尉
   二の御馬 駿河五郎左衛門の尉   同八郎左衛門の尉
   三の御馬 上野七郎左衛門の尉   同彌四郎
   四の御馬 近江四郎左衛門の尉   佐々木の六郎
   五の御馬 北條の五郎       南條七郎左衛門の尉
 

1月3日 庚戌
  椀飯(遠江の守沙汰)。御劔は右馬権の頭政村、御調度は遠江式部大夫光時、御行騰
  は壱岐の守光村等これを持参す。
   一の御馬 遠江の三郎       小井弖左衛門の尉
   二の御馬 陸奥の七郎       廣河の五郎
   三の御馬 信濃三郎左衛門の尉   隠岐四郎左衛門の尉
   四の御馬 小野寺小次郎左衛門の尉 同四郎左衛門の尉
   五の御馬 豊田太郎兵衛の尉    同次郎兵衛の尉
 

1月4日 辛亥
  将軍家二所の御精進始め。
 

1月9日 丙辰
  二所御進発。左京兆供奉し給う。御経供養、導師は大納言律師隆弁と。
 

1月10日 丁巳
  丑の刻三浦駿河の前司・玄蕃の頭・若狭の守泰村等の家失火に依って災す。
 

1月15日 壬戌 霽
  午の刻将軍家二所より還御す。
 

1月18日 乙丑 天晴
  匠作・左京兆小侍所に候せらる。主計の頭師員・毛利蔵人大夫入道西阿・玄蕃の頭基
  綱・隠岐入道行西・加賀の前司康俊等召しに依って参進す。将軍家御上洛の事評議有
  り。康俊の奉行として、御路次の間の條々の事、悉く奉行人等に召し付けらる。諸人
  供奉に漏れるべからず。信濃式部大夫入道行然に於いては、御留主に候すべしと。ま
  た師員の奉行として、陰陽師に召し問われて云く、来二十日御出門、二十八日御進発
  有るべし。而るに件の日八龍なり。御出門の後は憚るべからざる事か。但し同じくは
  宜日を擇び御進発有るべきの由、申し行うの人有り。何様たるべきや計り申すべして
  えり。晴賢朝臣申して云く、御出門の後は、強ち日次を擇ぶに及ばず。その故は、暫
  く御出門の所に御座すこと有るは、路次逗留の儀に準ずべきなり。然れども吉日の御
  進発を以て、また宜しかるべきや。来月二日・三日然るべきの日なり。この上猶当道
  に問わるべきかと。早くこの趣を披露し、重ねて当道に尋ね問わるべきの由、左京兆
  仰せらるるの間、基綱御前に参り申し、御延引有るべからざるの旨申し切りをはんぬ
  と。
 

1月19日 丙寅
  御所の心経会なり。
 

1月20日 丁卯
  御弓始めなり。今年は御物忌たるべきに依って、この儀有るべからざるの由窮冬定め
  らるると雖も、故にこれを遂げらる。射手の事、昨夕俄に御前に於いて始めの如く義
  村に仰せ合わさる。催促の為日記を陸奥の太郎に下さると。
  射手
   一番 小笠原の六郎     藤澤の四郎
   二番 横溝の六郎      松岡の四郎
   三番 岡辺左衛門四郎    本間次郎左衛門の尉
   四番 三浦又太郎左衛門の尉 秋葉の小三郎
   五番 下河邊左衛門の尉   山田の五郎
  午の刻将軍家御上洛有るべきに依って、御出門の為秋田城の介義景の甘縄の家に入御
  す。御輿を召さる。御立烏帽子・御直垂なり。供奉人の行粧同じくその躰を模し奉る
  と。夜に入り左京兆並びに室家、駿河の守有時の第に御出門。
 

1月28日 乙亥 天霽
  将軍家御上洛。寅の刻先ず晴賢参り、御身固めを勤む。今日は八龍日なり。聊かその
  難有るかの由、傾け申すの族有りと雖も、御出門の上は、日次の沙汰に及ぶべからざ
  るの旨仰せられ、御許容無しと。巳の刻御進発。御輿を用いらる。護持僧は岡崎法印
  成源(乗輿)、御験者は少将僧都公覺・大納言律師隆弁・丹後律師頼暁、医道は施薬
  院使良基朝臣・権侍医時長朝臣、陰陽道は前の大蔵権大輔泰貞・散位晴賢朝臣等な
  り。随兵以下前後の供奉人悉く進発するの処、匠作未だ御出門に及ばず。剰え囲碁会
  有り。左京兆頻りにこれを勧め申さる。而るに彼の祇候人等云く、未だ旅具を整えら
  れずと。仍って京兆野箭・行騰等を献ぜらるるの後、酉の刻進発し給う。酉の刻酒匂
  の駅に着御す。護持僧並びに医・陰両道の輩の宿、御所の近辺に点ぜらる。同じく雑
  事送夫等は、加賀の前司の奉行として沙汰し給うと。

[五代帝王物語]
  鎌倉には足利が留守にはありけるとかや。
 

1月29日 丙子 天晴
  今夕藍澤の駅に入御す。