1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

閏2月3日 己酉 天霽
  御招請に依って、将軍家大相国禅閤の御亭に渡御す。御儲け美を尽くさる。御贈物風
  流棚二脚(各々金銀を餝り、和漢の書を置く)。夜に入り六波羅に還御す。
 

閏2月7日 癸丑 天晴
  戌の刻佐女牛の東洞院失火、南北二町余り災す。
 

閏2月13日 己未 霽
  午の刻日重暈有り。陰陽の頭維範朝臣絵図を帯し、最前に六波羅殿に馳せ参る。殊に
  御慎み有るべきの由を申す。その後権天文博士季尚朝臣以下両三人召しに応じ参上す。
  維範朝臣進す所の図を下され、所存を勘じ申すべきの旨仰せらるるの間、強ち重変に
  非ず。去る建保年中道昌朝臣水無瀬殿に於いて、白虹日を貫くの由奏聞するの時、孝
  重朝臣申し敗れるの変は、今の暈なりと。今夜維範朝臣天地災変の御祭を奉仕す。伊
  勢の前司定員これを奉行すと。
 

閏2月14日 庚申 雨下る。終日休止せず。
  重変有りと雖も、三ヶ日中の降雨は消すべきかの由、泰貞朝臣兼ねてこれを申すと。
 

閏2月15日 辛酉 天晴
  戌の刻維範朝臣また六波羅殿に参る。太白昴を犯し、歳星災星を犯すの由これを申す。
  仍って将軍の御祈りとして属星祭を行わる。在衡朝臣これを奉仕す。戌の四刻樋口町
  の辺焼亡す。
 

閏2月16日 壬戌
  未の刻鞍馬寺焼亡す。失火と。小堂より火出来す。当寺は、桓武天皇の御宇延暦十五
  年丙子、藤原伊勢人貴布禰明神の告げに依って草創する以降、星霜すでに三百八十余
  年、専ら帝都擁護の精舎たりと。

[百錬抄]
  鞍馬寺焼亡す。毘沙門霊像は取り出し奉ると。大治元年以後この事無きか。