1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

3月2日 丁丑 天霽
  丑の刻将軍家聊か御不例。
 

3月6日 辛巳
  寅の刻雷雨・霹靂。
 

3月7日 壬午 天晴
  将軍家権大納言に任ぜしめ給う。また督・別当を去り給う。今日御不例御減の後御沐
  浴。医師時長朝臣祇候すと。
 

3月8日 [玉蘂]
  早旦聞書を見る。権大納言籐頼経(元第三中納言)、権中納言籐公相(元三位中将)
  (以下略)。 午の刻ばかり新大納言(頼経)来臨す。寝殿北面に於いてこれに謁す。
  行幸以前、拝賀を申すべし。大略前途の官たるに依って、殿上人・前駈を具すべしと。
  扈従昏に臨み帰りをはんぬ。
 

3月18日 癸巳
  海老名左衛門大夫忠行位記を止めらる。宜しく本官左衛門の尉たるべきの旨宣下す。
  これ関東の御免を蒙らず、叙爵を直奏せしむの間、その沙汰有るに依ってなり。
 

3月19日 甲午 去る夜深更より今日辰の刻に及び雨降る
  将軍家北山の別業に渡御す。亭主並びに一條殿・前の右府以下、去る夜よりこの所に
  於いて待ち奉らる。御遊興等有り。半更六波羅に還御すと。
 

3月22日 丁酉 陰、晩雨降る
  今日六波羅殿に於いて、南北二京の碩学を屈し、仁王八講を行わる。大殿・准后御聴
  聞の為入御すと。

[玉蘂]
  今日新大納言(頼経)、六波羅に於いて仁王八講を行わる。年来関東に於いて、毎年
  一度法花八講を行わると。(略)予聴聞すべきの由、亜相に命ぜらる。仍って巳の刻
  ばかり行き向かう(密々の儀なり。八葉の車を用ゆ。共侍有り)。准后同車。
 

3月23日 戊戌 雨降る
  未の三点寅方大風、人屋皆破損し、庭樹悉く吹き折る。申の刻晴に属く。西風また烈
  し。御八講の結願、頗る魔の障りなり。今日、相模の国深澤里の大仏堂事始めなり。
  僧浄光尊卑の緇素を勧進せしめ、この営作を企つと。
 

3月24日 己亥 天晴
  午の刻雨下る。雷鳴数声。
 

3月28日 癸卯 天晴
  今日春日行幸なり。

[玉蘂]
  この日今上初度の春日行幸なり。(略)京極大殿(師實)見物、晴着を用いず。法橋
  永実の桟敷に於いて密々見物すと。新大納言(頼経卿)の桟敷、大炊御門堀川と。入
  道相国同じくこれを儲く。事終わり帰路予の亭に来たり。夜に入り帰らる。

[五代帝王物語]
  大理にて行幸供奉せらるべきにて有けるが、すべて馬にのらぬ人にて、つゐに叶はざ
  りけり。本意なくぞ有ける。
 

3月29日 甲辰 [玉蘂]
  今日行幸還御なり。(略)而るに今度将軍上洛し、武士の見物群を成す。路頭の壮観
  南都に異ならず。
 

3月30日 乙巳
  小山下野の守従五位下藤原朝臣朝政法師(法名生西)卒す(年八十一)。病患幾日数
  を経ず。去る比舎弟上野入道日阿、相共に南都に於いて登壇受戒せしむと。