1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

4月2日 丁未
  三浦若狭の守泰村・二階堂出羽の前司行義等、評定衆に召し加えらるるの由仰せ下さ
  る。各々領掌を申すと。
 

4月6日 辛亥 天霽
  将軍家勅授の事宣下有りと。

[玉蘂]
  新大納言勅授の宣旨を下さる。この事兼日与儀有り。すでに征夷大将軍を帯し、勅任
  の除目に載せ兵部省に下す。尤も帯劔すべきの由、大外記師兼これを申す。而るに頼
  尚真人申して云く、将軍は尋常帯劔せず。忠文民部卿の如きは、東国を鎮めんが為節
  刀を給い下向す。帰洛の時返上す。陸奥の守赴任の時、必ず鎮守府将軍に任じ、在国
  の間帯劔す。諸国司の中、東国多く此の如し。尋常帯劔し宮門を出入すべからざるの
  由、允・亮の勘文に見る。軍防令の如きは、帯劔の仁に非ずと。仍って両明法博士に
  問われ評議有って、この宣旨を下さるる所なり。
 

4月7日 壬子 晴陰
  将軍家大納言御拝賀の儀有り。扈従の公卿・殿上人軒を連ぬ。前駈以下中納言御拝賀
  の時に同じと。

[玉蘂]
  今日新大納言拝賀なり。早旦女房六波羅に向かう。密々の儀なり。両三日経廻すべし
  と。中御門宰相・頭の中将等共に有り。未の刻ばかり予見物の為密々行き向かう。車
  を三条東洞院に立つ(便路)。小時供奉人大路を渡す。
  先ず殿上人十七人、
   頭の中将親季朝臣・右中将定平朝臣・左中将家定朝臣・左中将実光朝臣・左中将通
   行朝臣・右中将実直朝臣・右中将雅継朝臣・右少将忠俊朝臣・左少将能定朝臣・左
   中弁季頼朝臣・右少将教定朝臣・左少弁高嗣・蔵人左衛門権の佐顕朝・右衛門権の
   佐経俊・蔵人右衛門の佐時継・蔵人右衛門の尉藤原仲賢、蔵人左衛門の尉同教義
  諸大夫二十人
   讃岐の守兼教朝臣・前の甲斐の守基邦朝臣・能登の守仲能朝臣・美濃の守親實朝臣
   ・左馬権の頭盛長・前の肥前の守為仲・刑部権の少輔家盛・治部権の大輔兼康・皇
   后宮権の大進以良・前の丹波の守知仲・甲斐の守泰秀・中務権の少輔時長・民部少
   輔兼賢・右馬権の頭政村・皇后宮少進兼氏・武蔵の守朝直・宮内少輔泰氏・左近大
   夫将監忠茂・左兵衛の尉・予の勾當藤原為俊
  次いで車(車副二人、上簾、牛童木賊の狩襖上下、入道相国沙汰すと)
  歩走武士十人(車の左右に在り、各々帯劔。唐皮の尻鞘を差す。折烏帽子)
  衛府長 左近将監秦久清(褐返上下、赤地錦衣・紅単衣、平礼・差帯・帯劔)
  次いで雑色三人(平礼・下括り、着沓、これまた入道相国の雑色なり)
  次いで共侍十人
   籐左衛門の尉忠行・源左衛門の尉季能・豊後四郎左衛門の尉忠綱・宇都宮五郎左衛
   門の尉宗朝・佐原太郎左衛門の尉胤家・笠間左衛門の尉時朝・隠岐五郎左衛門の尉
   泰清・駿河又太郎左衛門の尉氏村・近江四郎左衛門の尉氏信・佐渡五郎左衛門の尉
   基隆
  次いで扈従の公卿六人
   鷹司中納言伊平・権中納言為家・二位宰相公雅・左宰相中将実持・別当実雄(検非
   違使を召し具す)・侍従宰相資季
  次いで随兵十騎
   相模式部大夫・遠江掃部大夫・大井の太郎・河肥掃部の助・大須賀左衛門の尉・土
   屋の新三郎・阿曽沼の四郎・佐竹の六郎・大鞆大炊の助
  渡り畢わり予帰家す。
    参内、弓場に於いて、頭の中将親季に付き奏慶す。拝舞了わり殿上に候す。頭の中将
  召しの由を告ぐ。御前に参り少時退出す。申の斜め予の亭に来たり。
 

4月9日 甲寅 天晴
  今日天台座主(慈源僧正、将軍家御舎弟)御拝堂。

[玉蘂]
  今日天台座主権僧正慈源拝堂なり。
 

4月10日 乙卯 天霽
  一條殿の御息若君(福王公、将軍家御舎弟)仁和寺御室に入室し給う。大殿御同車。
  君達右府(良實)・幕下(實経)・将軍家御扈従。後車の雲客済々焉たり。件の若君、
  日来は将軍家御猶子なり。忽ちその儀を変えられをはんぬ。臣下の御入室、希代の例
  なり。晩に及び還御す。戌の刻錦小路白河焼亡し、数十宇災す。その後小雨降る。

[玉蘂]
  今日小童(童名福王)を相具し、仁和寺法親王の室に向かう。その儀先規不祥と雖も、
  保延五宮御室の例に准拠す。且つは時儀に課し媒酌を加え、且つは前の博陸に示し合
  わせ行う所なり。巳の初刻新大納言来らる。出立の事を訪わんが為なり。これ彼の猶
  子たるに依って扶持せしむ所なり。(略)小童将軍の猶子たるに依って、共侍十人催
  し送らる。
  若君共侍十人
   長三郎左衛門の尉朝連・武藤左衛門の尉景頼・加藤左衛門の尉行景・肥後二郎左衛
   門の尉為時・佐原六郎太郎左衛門の尉資胤・壱岐三郎左衛門の尉時清・和泉六郎右
   衛門の尉景村・信濃三郎左衛門の尉行綱・伊東六郎兵衛の尉祐盛・遠山三郎兵衛の
   尉景重
  今日前の関白(家實)准三宮の辞表を上げらる。去る月二十五日この勅書を下さる。
  外祖に非ざるの人の准三宮、保延知足院殿(忠実)の外これ無し。今度摂政(兼経)
  の父として、予外祖たるに依って、この事有るべきの由沙汰有るの間、家の元老とし
  て、尤も優恕有るべし。茲に因って予申し行う所なり。
 

4月11日 丙辰 陰、深更に及び小雨降る
  今日将軍家御直衣始め。

[玉蘂]
  今朝新大納言直衣を着し参内す。前駈六人・殿上人二人と。
 

4月13日 戊午 [玉蘂]
  早旦新大納言来たり。未の時ばかり予北白河院に参る。
 

4月16日 辛酉 天霽
  賀茂祭なり。将軍家御見物の間、毎事花美例に超ゆ。則ち御家人廷尉能行・家平・基
  政・光重・頼業等大路を渡る。
 

4月17日 壬戌 [玉蘂]
  今日新大納言辞状を献ると。
 

4月18日 癸亥 天霽
  将軍家権大納言を辞せしめ給う。
 

4月24日 己巳 雨降る
  今日一條大殿兵仗御辞退。准三宮の宣旨を下さる。即ちまたこれを辞せしめ給うと。
 

4月25日 庚午 雨降る
  今日、一條大殿法性寺殿に於いて御素懐を遂げらる。御戒師は飯室前の大僧正(良快、
  九條殿御息)、唄師は岡崎法印成源、御剃手は法印印圓。摂政殿以下済々群参す。将
  軍家参らしめ御う。

[百錬抄]
  一條太閤法性寺別庄に於いて落餝せらる。年来の素懐と。戒師飯室前の大僧正(良快)。
  行年四十六。法名行恵。保延の例と。