1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

5月4日 戊寅 晴陰
  晩に及び、将軍家より菖蒲の御枕(金銀を鏤む)並びに御扇等を公家に調進せらると。
  件の御枕は、六位定役の為調進するものなり。而るに求めらるるに依って、御進物の
  次いでに此の如しと。
 

5月5日 己卯
  戌の刻太白軒轅大星を犯す。希代の変異なり。延喜・天暦二代の御記に見えると。今
  日、坊門大納言入道殿謁し申せしむべきの由、左京兆に示し遣わさるると雖も、風気
  と称し辞退すと。これ承久兵乱の時、彼の禅門罪科の事、左京兆殊に潤色を加えらる
  るに依って、故二品並びに右京兆等の御計としてこれを宥めらるるの間、その事に報
  われんが為、今この儀に及ぶと。京兆兼ねてその意を得て、向かわしめ給わずと。
 

5月11日 乙酉
  故左衛門の尉坂上明定の子息左兵衛の尉明胤領掌す亡父遺跡の事、相違有るべからざ
  るの由厳旨を含む。これ石見の国長田保・播磨の国巨智庄地頭職、河内の国藍御作手
  奉行、近江の国天福寺地頭等の事と。去年十月四日父これを譲り死去す。明定名人た
  るに依って、左京兆頻りに遺孤を憐愍し給うと。
 

5月16日 庚寅
  今日、将軍家右府の御亭に渡御す。御興遊の最中、若君(福王公)飼い給う所の小鳥
  (コウ、鳩の一種))籠の内より飛び去り、庭前の橘の梢に在り。若君周章給うの間、
  諸大夫の侍等馳走すと雖も、取らんと欲するに所無し。或る雲客申して云く、将軍の
  御共大略勇士なり。その中の弓上手を召し、これを射取らしめ給うべしと。仍って若
  君御前に参り、この由を申し給う。この事将軍家殊に御思慮有り。態と小冠を撰び、
  上野の十郎朝村を召し上ぐ。この鳥死せざるの様射取るべきの由仰せ含めらる。朝村
  辞し申すこと能わず。弓と引目を取り、樹下に進み寄る。彼の木枝葉尤も茂く、小鳥
  の姿僅かに葉の隙に見えると雖も、枝差し違い、養由に非ずんば輙くこれを獲難きか。
  朝村庭上に蹲踞す。小刀を取り引目の目柱二つを削り欠くの後これを挟み、数反樹下
  を窺い廻る。諸人その気色を見て敢えて瞬きせず。遂に箭を発つ。鳥声を止む。箭庭
  上に落つ。朝村即ち件の箭を持参す。鳥は引目の内に込める所なり。目柱を削り捨て
  る事この用意なり。少しの疵も有らず。籠の中に入れらるるの処、尾羽を動かし囀り
  鳴く。堂上・堂下感嘆の声耳に満つ。将軍家御衣を解かしめ給う。亭主御劔を召し出
  さる。各々朝村の纏頭の為と。
 

5月18日 壬辰
  相模の国深澤里の大仏の御頭これを挙げ奉る。周り八丈なり。
 

5月19日 癸巳 小雨降る。申の刻天晴
  今日最勝講始めなり。
 

5月20日 甲午 陰晴
  今日、将軍家の御家人左衛門少尉藤原時朝(笠間と号す)・藤原朝村(上野の十郎と
  号す)等を以て、前の右大臣家(普光園)の御簡衆に加えらる。朝村に於いては、射
  芸を感じ給うに依って御所望に及ぶと。