1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

12月2日 癸卯 雪降る
 

12月3日 甲辰 夜半以後雪下る。午の刻に及び天晴
  今暁北條左親衛鳥立を見んが為、大庭野に行き向かわる。三浦若狭の守・同駿河四郎
  左衛門の尉・同五郎左衛門の尉・下河邊左衛門の尉・遠江三郎左衛門の尉・武田の六
  郎・小笠原の六郎以下の射手等、多く以て相伴わると。
 

12月7日 戊申 晴
  今日評議の次いでに、諸堂の供僧等の事に就いて定めらるるの旨有り。これ病患に臨
  み、非器の弟子に附属し、また名代を立てるの後世間に落堕し、猶その利潤を貪る事、
  向後停止すべきの由と。
 

12月9日 庚戌 天晴
  午の刻地震。今日京都の使者参着す。去る月二十三日改元、嘉禎四年を改め暦仁元年
  と為す。経範朝臣これを撰び進す。螢惑の変に依ってこの儀に及ぶと。
 

12月12日 癸丑 大雪降る
  曙の後、北條左親衛若狭の守以下の人々を相具し、山内の辺に逍遙し、雉兎多くこれ
  を獲る。
 

12月14日 乙卯
  天変の御祈り等、内外典に就いて始行すと。
 

12月16日 丁巳 終日雨降る
  今日評定。御家人等重病危急の期に臨まざれば、所帯を妻妾に譲るべからざるの由定
  めらると。その後匠作・前の武州御所に参らる。恩沢の沙汰有り。基綱これを奉行す。
 

12月18日 己未
  毎月六齋殺生禁断の事仰せ下さる。但し河海の漁人渡世の計を為すは、制止の限りに
  非ざるの由と。
 

12月19日 庚申
  御所に於いて節分の御方違えの事その沙汰有り。遠江の守の名越の宿所を用いらるべ
  きの由、前の武州申せしめ給うの処、清右衛門大夫季氏申して云く、彼の所は天一遊
  行方なり。憚り有るべしと。陰陽の頭維範朝臣に問わる。公家の外その憚り有るべか
  らざるの由これを申す。仍って名越亭に治定すと。
 

12月22日 癸亥
  去る二十日より今夜に至るまで、御所に於いて属星御祭を行わる。晴賢朝臣これを奉
  仕す。将軍家毎夜その庭に出御す。御拝有り(御束帯)。今夜結願なり。御祭の物具
  は皆焼き上げると。能登の守仲能これを奉行す。
 

12月23日 甲子 霽
  戌の刻将軍家御方違えの為、遠江の守朝時の名越亭に入御す。これ日来御本所なり。
  今日、匠作家領の惣員数を注し、これを子息等に配分し給う。大体は内々前の武州に
  申し合わさる。少々は用捨の事有りと。
 

12月24日 乙丑 晴
  遠州亭に御逗留。今日帰亡日たるに依ってなり。これその憚り無きの由陰陽道これを
  勘じ申すと雖も、法性寺殿忌せしめ御う間、御佳例を追わると。
 

12月25日 丙寅
  名越より還御す。遠州御引出物を進せらる。御劔は式部の丞時章、御馬は遠江修理の
  亮時幸・同五郎時兼等これを引く。
 

12月26日 丁卯
  将軍家御持仏堂の東僧坊に出御す。匠作・前の武州参らる。恩沢の事等御前に於いて
  沙汰有り。入眼。その後同東縁に出御す。陰陽師等を召し、明年の二所御奉幣の日時
  以下の事直に下問有り。定めらると。
 

12月28日 己巳
  匠作・前の武州・遠江の守・右馬権の頭・駿河の守・宮内少輔等、右大将家・二位家
  ・前の右京兆等の法華堂に参らる。歳末たるが故か。駿河の前司・毛利蔵人大夫入道
  ・甲斐の守・秋田城の介参会すと。

[北條九代記]
  宣秋門院崩ず(六十七)。
 

12月29日 庚午 天霽
  戌の刻周防の前司親實の家焼亡す。失火と。