1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

1月1日 壬申 天霽
  椀飯(匠作御沙汰)例の如し。御劔は周防右馬の助光時(束帯)、御弓矢は武蔵の守
  朝直(布衣)、御行騰沓は肥前の守家連
   一の御馬(鞍を置く)相模式部大夫時直    本間次郎左衛門の尉信忠
   二の御馬      相模右近大夫将監時定  横地太郎兵衛の尉長直
   三の御馬      佐原太郎左衛門の尉家胤 同四郎左衛門の尉光連
   四の御馬      佐原七郎左衛門の尉政連 同六郎助連
   五の御馬      相模の七郎時弘     橘右馬の允公高
 

1月2日 癸酉 天霽
  椀飯(前の武州御沙汰)。御劔は右馬権の頭政村(束帯)、御調度は若狭の守泰村(布
  衣)、御行騰は秋田城介義景(平礼・帯劔)。
   一の御馬 周防右馬の助光時(布衣・帯劔)  同修理の亮時幸
   二の御馬 北條左近大夫将監経時(布衣・帯劔)梶原右衛門の尉景俊
   三の御馬 陸奥掃部の助實時         原左衛門の尉忠康
   四の御馬 大曽祢太郎兵衛の尉長経      同次郎兵衛の尉盛経
   五の御馬 北條五郎兵衛の尉時頼       彌次郎左衛門の尉親盛
 

1月3日 甲戌 天霽
  椀飯(遠江の守沙汰)。御劔は右馬権の頭(布衣)、御調度は周防右馬の助光時、御
  行騰は内藤七郎左衛門の尉盛継。
   一の御馬(鞍を置く)遠江式部大夫時章    小見左衛門の尉親家
   二の御馬      南條八郎兵衛の尉忠時  同平四郎
   三の御馬      陸奥掃部の助實時    梶原右衛門の尉景俊
   四の御馬      平新左衛門の尉盛時   同四郎
   五の御馬      遠江の五郎時兼     飯田の五郎家重
  椀飯以後、将軍家御行始め。前の武州の御亭に入御すと。
 

1月5日 丙子
  御弓始めなり。
  射手
   一番 三浦駿河五郎左衛門の尉 佐貫左衛門次郎
   二番 同佐原四郎左衛門の尉  大河戸太郎兵衛の尉
   三番 南條八郎兵衛の尉    平左衛門四郎
   四番 藤澤の四郎       本間源内左衛門の尉
   五番 横溝の六郎       原の三郎
   六番 小笠原の三郎      神地の四郎
 

1月11日 壬午 雨雪降る
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。午の二点御出で(御束帯・御車)。陸奥掃部の助御劔を
  役す。佐渡判官基政・上野判官朝廣等供奉す。今日、陸奥の国郡郷所当の事沙汰有り。
  これ准布の例、沙汰人・百姓等、私に本進の備えを忘れ銭貨を好む。所済の乃貢、年
  を追って不法の由その聞こえ有るに依って、白河関以東は、下向の輩の所持に於いて
  は、禁制に及ばず。また絹布の麁悪甚だ謂われ無し。本の様弁済せしむべきの旨定め
  らる。匠作の奉書を以て前の武州に触れ仰せらる。
 

1月17日 戊子 霽
  将軍家二所御精進始め。
 

1月19日 庚寅 小雨降り終夜に及ぶ
  今日京都の使者参る。去年十二月二十八日宣秋門院崩御す(春秋六十七と)。
 

1月27日 戊戌 晴、夜に入り雨雪、半更に至り霽に属く
  今日巳の刻二所より御帰着。一昨日二十五日晩昏、三嶋・伊豆両社御奉幣と。