1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

2月3日 癸卯
  御所に於いて信読の大般若経を始めらる。権の少僧都澄弁奉仕すと。
 

2月4日 甲辰 快霽
  夜半に及び雨雪降る。雷電数声。
 

2月5日 乙巳 晴
  酉の刻雷雨甚だし。
 

2月7日 丁未 [百錬抄]
  改元の事有り。暦仁、世俗に云く、略人憚り有り。且つは上下多く夭亡の聞こえ有り。
  仍って延應に改められをはんぬ。但し猶変災に依って改元の由詔書に仰せらる。
 

2月11日 辛亥 [百錬抄]
  今日巳の時暈有り。司天の輩或いは文暈の由を奏す。或いは白虹の由を申す。
 

2月14日 甲寅
  武蔵の国小机郷鳥山等の荒野水田を開発すべきの由、大夫の尉泰綱に仰せらる。今日
  筥根山の経会打ち止む。これ則ち別当興實と職衆等と喧嘩に及ぶに依ってなりと。
 

2月16日 丙辰 天晴
  京都の使者到着す。去る七日改元、暦仁二年を改め延應元年と為す。経範朝臣これを
  撰び進す。また去る月十九日侍従僧正信恵入滅すと。去年九月二十四日弁僧正定豪圓
  寂に帰すの後、彼の替わりとして東寺一の長者に補すと。
 

2月22日 壬戌 [百錬抄]
  隠岐の法皇崩御す(春秋六十)。去る承久三年已後十九年に及ぶ。天下の貴賤誰か傷
  哀せざるや。
 

2月30日 庚午
  御家人所帯の事、知行年序を経るの後、猶本領と称し訴え申す輩有るの間、此の如き
  濫訴を断たんが為、兼ねて式條を造るの上は、今更子細に及ばざるの由御沙汰有りと。