1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

11月1日 丙寅 寅の刻西方雷電数度、午の刻以後震動、大風甚雨
  近日信濃の国司初任検注の事その沙汰有り。而るに諏方五月会並びに御射山頭人等訴
  訟を企つ。神事頭番に相当たるの輩、免許に預かるの先例有り。但し神事に優ぜられ、
  その年を免ぜらるると雖も、後年を以てその節に遂行せらるに於いては、免除の詮有
  るべからざるの由と。仍って今日評定有り。先例を当社大祝信濃権の守信重に尋ね問
  わると。
 

11月2日 丁卯
  北條五郎兵衛の尉嫁娶の儀有り。毛利蔵人大夫入道西阿の息女なり。今夜西阿の宿所
  に渡らると。
 

11月5日 庚午
  薩摩の與一公員と伊豆の前司頼定と相論する出羽の国秋田郡湯河湊の事、今日御前に
  於いて一決を遂ぐ。散位康連これを奉行し、公員に付けらると。頼定妻女の父の遺領
  たるの由これを申すと。
 

11月6日 辛未
  二棟の御産平安の御祈り、霊所祭を修せらる。維範朝臣管領たりと。
 

11月9日 甲戌
  信濃の国司初任検注の事、諏方大祝信重請文を捧ぐ。当社五月会・御射山以下の頭役
  人等申す国検の事、頭番に相当たるに依って、その年に限らず一任の間免ぜらるる事、
  先例たるの由これを載す。仍って重ねて御沙汰の趣、異儀に及ばずと。
 

11月12日 丁丑
  子の刻大地震。
 

11月20日 乙酉 霽
  巳の刻二棟の御方(大宮殿と号す)御産気有り。大倉より施薬院使良基朝臣の薬師堂
  の宅に移り給う。御産所たるべしと。御験者助僧正厳海以下皆以て彼の所に参集す。
  鳴絃の役人参進す。兵庫の頭定員の奉行として、御祈り等の事その沙汰有りと。
 

11月21日 丙戌 天晴
  辰の刻御平産なり(若君)。先ず御験者三人・民部卿僧都・宰相僧都・大夫僧都禄を
  賜う(五衣、単在り)。御馬(鞍を置く)を引かる。次いで医道女医博士頼行(水干
  袴)禄を給う(三重衣)。庭に於いてこれを給う。御馬(鞍を置く)を引かる。庭上
  に下り立ちこれを取る。次いで陰陽道大膳権大夫維範朝臣(衣冠)禄を給う(二衣重
  薄衣)。御馬(鞍を置く)これを賜う。作法前の如し。次いで資宣・廣資(御祓衆)
  各々二衣一領、御馬(裸)これを拝領す。佐渡の前司基綱奉行たり。雑事勘文は維範
  朝臣一人これを献ず。巳の刻誕生の由を載す。助法印珍譽申して云く、辰終わりの刻
  なり。時刻の相違有らば、宿曜方の勘文相違すべしと。仍ってこれを書き改め辰の字
  を載すと。