1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

12月5日 庚子
  酉の刻前の駿河の守正五位下平朝臣義村卒す。頓死・大中風と。夜に入り前の武州故
  駿河の前司の第に向かう。彼の賢息等を訪わしめ給う。人々群集す。左馬の助光時将
  軍家の御使たりと。
 

12月13日 戊申
  若君御前御行始めの間の事御沙汰を経らる。吉方を問わる。東方若くは坤方吉の由、
  維範朝臣これを申す。東方は吉方たりと雖も、来二十一日は太白方なり。坤方は吉方
  たるに依って、御産所施薬院使良基朝臣の大倉の家より件の方に当たり、然るべきの
  人家見定むべきの由仰せ下さる。仍って平左衛門の尉盛綱の奉行として、維範朝臣を
  してこれを相計らしむ。加賀民部大夫康持並びに武田入道等の名越の家、方角に叶う
  の由これを申す。盛綱この旨を披露せしむ。康持の家頗る尋常なり。早く用いらるべ
  し。武田は遁世者たり。然るべからざるの由仰せ出ださると。
 

12月15日 庚戌
  御所に於いて、年始の雑事・日次等の事その沙汰有り。維範・時賢等の朝臣連署の勘
  文を献る。その中丙寅を以て吉書の日と為す。先年国道朝臣この日を撰び申すの時、
  師員朝臣、丙寅の日吉書を成すべからざるの由これを難じ申すに就いて、国道例を勘
  じをはんぬ。今またこの事出来す。早くその例を勘進すべきの旨仰せ出さるるの間、
  各々丙寅吉書を覧るの例これを勘じ申す。仍って左右に能わず。彼の日を以て吉書を
  成すべしと。
   貞観十二年正月十三日丙寅、藤原朝臣氏宗(御年六十四)・源朝臣融(七十四)・
                源朝臣多(五十七)。
   承平五年六月三日丙寅、藤原朝臣實頼(小野宮殿、七十一)
   同日         藤原朝臣師輔(九條殿)
   天禄三年二月五日丙寅、藤原朝臣兼家(法興院殿、六十二)
   治安元年八月二十三日丙寅、藤原朝臣實資(九十)
 

12月21日 丙辰 天霽
  将軍家若君御行始め(御輿を用いらる)。午の刻御産所より町野加賀民部大夫康持の
  宿所(吉方)に入御す。供奉人立烏帽子・直衣なり。御引出物員有りと。申の刻御所
  に渡御すと。
 

12月27日 壬戌 天晴
  未の刻前の武州の南御近隣失火有り。人屋五六宇災す。
 

12月29日 甲子
  丑の刻武蔵大路の下、佐々木隠岐入道の家以下数十宇焼失す。失火と。