1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

閏10月3日 壬戌
  去る月二十日の任大臣(左實経、一條家祖・道長三男。内家良、近衛流衣笠・内府な
  り)の除書到着す。師員朝臣御所に持参す。御賀札等を遣わさるべきの由仰せらると。
 

閏10月5日 甲子
  問状の事、問答の訴人等掠め申すの旨露顕の時は、罪科に処すべきの由、面々これを
  仰せ含めらるべしと。太宰の少貳為佐・加賀民部大夫康持奉行たりと。
 

閏10月22日 辛巳 晴 [平戸記]
  午の刻伊勢前司清定来たり。関東よりこの間上洛すと(訴訟に依って去る八月下旬下
  向す)。心閑かに世事を談る。
 

閏10月23日 壬午
  丑の刻前の陰陽権の助正四位下安倍朝臣親職卒す。
 

閏10月28日 丁亥
  御所に於いて、北斗堂事始め以下の日次の事これを定めらる。伊賀式部大夫入道・大
  田民部大夫等これを奉行す。