1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

11月1日 庚寅 [百錬抄]
  朔日冬至なり。御暦案、権暦博士定昌已下これを舁く。阿部氏舁くべからざるの由、
  賀茂氏群訴の故なり。
 

11月8日 丁酉 [平戸記]
  今日関東恒例の貢馬を内裏に進すと。仍って近々にその御沙汰有るべきの故と。
 

11月12日 辛丑
  大倉北斗堂の地これを引き始めらる。前の武州監臨し給う。伊賀式部大夫入道・加賀
  民部大夫・大田民部大夫等これを奉行す。
 

11月17日 丙午 夜前より甚雨大風 [平戸記]
  寅の刻ばかり雷鳴三四ヶ度、共に以て微音・微明に及ぶの間大鳴一声、その声良久し
  く休まず。冬の雷鳴、武家必ず事有りと。近例、故実朝凶事の時、前年の冬(十二月
  か)関東に於いて雷鳴(雪中この声有り)。義時朝臣並びに尼二品事の時、また前年
  冬雷鳴と。武家慎むべきか。
 

11月19日 戊申
  長沼前の淡路の守従五位下藤原朝臣宗政法師卒す(年七十九)。時に下野の国長沼郡
  に在りと。
 

11月21日 庚戌
  今日鎌倉中警固の為、辻々篝を焼くべきの由定めらる。保内の在家等に省き宛て、結
  番を定め勤仕すべきの旨、保々の奉行人等に触れ仰せらると。
 

11月23日 壬子
  清左衛門の尉の奉行として、洛中未作の篝屋等の事議定有り。その用途を御家人等に
  省き宛てらる。而るに本新補地頭御下知を叙用せざれば、所領を召さるべきの旨、先
  日式目に載せらると雖も、所領を召されば、これに就いて所々の訴訟尽きる期無きか。
  仍って篝屋用途を召さるべきなり。仮令五十町に銭五十貫文を召すべきの由定めらる。
  但し地頭得分なり。土民の煩いを成すべからずと。
 

11月28日 丁巳
  京都大番勤否の事沙汰を経らる。これ遅参不法の輩有るの由その聞こえ有るに依って
  なり。仮令一ヶ月遅参せしめば、過怠用途千疋を召され、未作の篝屋料に宛てらるべ
  しと。
 

11月29日 戊午
  洛中群盗蜂起の由風聞の説有るに依って、篝屋守護の者並びに在地人等懈緩の御疑問
  有り。今日前の武州の御亭に於いて評定有り。右馬権の頭・摂津の前司・佐渡の前司
  ・秋田城の介・出羽の前司・太宰の少貳・加賀民部大夫等参入す。各々意見区々と雖
  も、所詮篝辻毎に大鼓を置き、事出来するの時に於いては、その声を発すに随い在家
  毎に続松を用意せしめ、時刻を経ず松明を指し出すべきの由、保官人沙汰を申すべし。
  下知に相従わざるの在家に於いては、罪科に処せらるべし。大鼓に於いては、京畿の
  御家人等に充てらるべしと。この趣を以て六波羅に仰せ遣わさるべしと。
 

11月30日 己未 天晴
  鎌倉と六浦津との中間、始めて道路に当てらるべきの由議定有り。今日縄を曳き丈尺
  を打ち、御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると。前の武
  州その所処を監臨し給う。中野左衛門の尉時景これを奉行す。泰貞朝臣日次を擇び申
  すと。