1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

12月1日 庚申 [平戸記]
  一夜(その日を聞かず)群盗脩明門院に推参し(この怖畏に依って、先日岡崎を去ら
  しめ給い、四辻堂御所に渡御す。近日御坐すの間なり)、女房等悉くその殃に遇う。
  結句仙院を剥ぎ奉ると。乱代の至極か。凡そこの事連夜蜂起し、上下相道に能わず。
 

12月4日 癸亥 晴 [平戸記]
  今夕除目を行わるべしと。これ公事用途関東より沙汰し進すべきの間、今に於いては
  任官の功を停めらるべしと。前用途の輩に於いては不便に依って任じ置かるべしと。
 

12月12日 辛未
  洛中辻々の篝松用途の事役所に定めらるる処、対捍の由その聞こえ有るに依って、多
  少に随い篝屋を充て造らしむべし。且つは交名を注し申すべきの由、今日六波羅に仰
  せらると。
 

12月15日 甲戌
  左衛門の尉藤原基行法師(法名行阿)死す(年四十二)。
 

12月16日 乙亥
  二所御精進屋として、御所の巽角に新御所一宇を立てらる。檜皮葺きなり。別して門
  を立てらると。今日御所に於いて評定有り。二所・三嶋並びに春日等の社、毎日御神
  楽有るべきの由、将軍家御立願有り。これすでに莫大の用途たるべし。毎月沙汰し遣
  わせらるの條御家人の煩いなり。その分に募り一所を寄付せらるべきかの由沙汰を経
  らるるの処、折節便宜の地無し。功銭を定めらる。且つは毎日の儀を止め毎月たるべ
  しと。次いで御家人任官の功銭の事その沙汰有り。納に随い或いは百貫或いは五十貫、
  官庫に進上せしめ、返抄を取り進すべきの由、六波羅に仰せらるべしと。この外、地
  頭所務以下の事に就いて定めらるる條々、
  一、本補跡の所々検断の事
    先例に任すべしてえり。
  一、厨雑事等の事
    本新補を謂わず、一向停止す(馬葛薪以下は沙汰の限りに非ず)てえり。
  一、人倫売買の事
    勾引中の人等は関東に召し下さるべし。売らるるの類は、見及ぶに随いその身を
    放たるべし。且つは路次の関々に触れらるべきなり。
  一、諸社の神官並びに神人等起請を書かしむ時、他社に於いて書くべからざる由の事
    京都に於いて書せしめば、自他社を嫌わず、北野に於いて書くべきなり。
  一、罪科に行わるべき由御下知の了見を載せらるる事
    子細を分明に書き載すべしてえり。
 

12月21日 庚辰
  今朝前の武州評定衆等を相具し、右大将家の法華堂に参らしめ給い、仏事を修せらる。
  荘厳房僧都行勇導師たり。これ故隠岐次郎左衛門入道行阿初七日の忌景たるに依って
  なり。凡そ向後評定以下公事に携わる輩の没後に於いては、必ず追善を励ますべきの
  由衆談に及ぶと。
 

12月23日 壬午
  春日社並びに二所・三嶋毎月御神楽の事、明春正月十七日始行せらるべきの由、今日
  兵庫の頭定員の奉行として政所に仰せ下さると。