1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

1月1日 庚寅 天霽、風静まる
  椀飯(前の武州御沙汰)。御劔は右馬権の頭政村、御調度は甲斐の前司泰秀、御行騰
  は佐渡の前司基綱。
   一の御馬 北條左近大夫将監経時  駿河又太郎左衛門の尉
   二の御馬 上野五郎兵衛の尉    同十郎
   三の御馬 信濃三郎左衛門の尉   同四郎左衛門の尉
   四の御馬 佐原五郎左衛門の尉   同六郎兵衛の尉
   五の御馬 北條五郎兵衛の尉    平新左衛門の尉
  今日、御所に於いて大納言僧都隆弁焔魔天供を修すと。
 

1月2日 辛卯 天晴
  椀飯、左馬の頭義氏朝臣沙汰。御劔は宮内少輔泰氏、御調度は秋田城の介義景、御行
  騰は太宰の少貳為佐。
   一の御馬 足利の五郎       高の弥太郎
   二の御馬 新田の太郎       阿保の彌次郎
   三の御馬 多々良の小太郎     同次郎
   四の御馬 武小次郎兵衛の尉    同三郎
   五の御馬 畠山の三郎       大井田の十郎
 

1月3日 壬辰 朝間雪降る、巳以後天霽
  椀飯(遠江の前司朝時沙汰)。御劔は備前の守時長、御調度は若狭の前司泰村、御行
  騰は遠山大蔵少輔景朝。
   一の御馬 周防左馬の助      遠藤五郎左衛門の尉
   二の御馬 遠江式部大夫時章    小井弖左衛門の尉
   三の御馬 遠江修理の亮時幸    廣河五郎左衛門の尉
   四の御馬 遠江の五郎       廣河の八郎
   五の御馬 陸奥の七郎景時     平左衛門四郎
 

1月4日 癸巳 天晴
  吉書を覧る。前の武州持参し給う。信濃民部大夫行泰これを伝え奉る。
 

1月5日 甲午 天晴
  御弓始めなり。
  射手
   一番 下川邊左衛門の尉  佐原六郎兵衛の尉
   二番 信濃三郎左衛門の尉 海老名左衛門三郎
   三番 渋谷の六郎     工藤の三郎
   四番 横溝の六郎     古庄の四郎
   五番 小笠原の六郎    岡邊左衛門四郎

[百錬抄]
  主上(十一歳)御元服なり。加冠摂政太政大臣、理御鬢左大臣、理髪内蔵頭頼氏朝臣。
  巳の刻北廂に渡御す。事了り御遊有り。
 

1月8日 丁酉 未の刻雷鳴
  今日御所の心経会なり。将軍家出御すと。夜に入り京都の使者参着す。これ常住院僧
  正坊(道慶、後京極殿御子)大僧正に転任(将軍家の御挙)せらるるの間、その僧事
  の除書を持参すと。
 

1月11日 庚子 申酉の両時雷鳴
  今日椀飯以後、晴賢朝臣を御所に召さる。内蔵権の頭資親を以て御扇を賜う。これ常
  住院大僧正転任の事を挙げ申せしめ御うの間、さる七日許否の御占い有り。晴賢すで
  に入眼しをはんぬるの由言上す。翌日彼の僧事の除書参着す。掌を指すが如し。仍っ
  て御感の故なりと。
 

1月14日 癸卯 天晴
  戌の刻地震。今日将軍家鶴岡八幡宮に御参り。前の右馬権の頭・宮内少輔・北條大夫
  将監・備前の守・伊豆の前司・甲斐の前司・秋田城の介・下野の前司・佐渡の前司・
  若狭の前司・河内の前司・出羽の前司・大蔵少輔行賢・大和の前司・太宰の少貳・壱
  岐の前司・信濃民部大夫・伊賀の守・出羽判官・佐渡判官・上野判官・小山左衛門の
  尉・上野左衛門の尉・近江四郎左衛門の尉・駿河五郎左衛門の尉・同八郎左衛門の尉
  ・大多和新左衛門の尉・大須賀六郎左衛門の尉・和泉次郎左衛門の尉等供奉すと。今
  夕将軍家御祈り、百日の天冑地府祭を始行せらる。晴継朝臣奉仕すと。
 

1月17日 丙午 天霽
  将軍御台所鶴岡宮に御参り。御車を用いらる。今日春日社・二所・三嶋社等に於いて
  御神楽を行うべきの由、政所に仰せ付けらる。これ毎日式たるべきの旨、兼日素願有
  りと雖も、去年十二月評議を経て、毎月に減定せらるる所なり。
 

1月19日 戊申
  京都の使者参着す。去る五日主上(春秋十一)御元服。御加冠(摂政)、理髪(左府)、
  能冠(内蔵の頭顕氏朝臣と)。また去年十一月一日洛中の群盗を相鎮むべき間の事評
  定有り、相州に仰せらる。相州これを申せらるるに就いて、公家使の廰等に仰せ付け
  らると。彼の状等到来す。
   群盗相鎮むべき間の事、関東の申状に任せその沙汰を致すべきの由、武家に仰せ遣
   わさるべきの旨、摂政殿の御消息候なり。仍って上啓件の如し。
     十二月十三日         右大弁経光
   謹上 堀河中納言殿

   群盗相鎮めらるべき間の事、綸旨此の如し。殊にその沙汰を致すべきの由、使の廰
   に仰せられ候いをはんぬ。その旨を存ぜしめ給うべきの状、仰せ下され候所なり。
   仍って執達件の如し。
     十二月二十三日        権中納言親俊
   相模の守殿
 

1月23日 壬子
  将軍家馬場殿に渡御す。前の武州参らる。遠江の前司・駿河の守・宮内少輔・摂津の
  前司・上総権の介・出羽の前司以下数輩参上す。先ず若輩等をして遠笠懸・小笠懸を
  射せしむ。次いで弓場に於いて宿老の類を相加え射的の儀有り。武田伊豆入道光蓮・
  海野左衛門の尉幸氏・望月左衛門の尉重隆等態とこれを召し出され、見證に侯せしむ。
  各々彼是を観て、後日の美談たるべきの由感じ申す。その後椀飯の儀有り。恒の如し。
  次いで射手等積物を分ち賜う。時に幸氏申して云く、将軍家御前に於いて射手懸物を
  賜うの次第は、右大將家の御時、諸家の説々を尋ね聚めらると。即ち御尋ねに付き、
  悉くこれを申すと。凡そ今日の式は、日者御本意たるの間、御自愛他に無しと。
  笠懸の射手
   北條左近大夫将監     同五郎兵衛の尉
   駿河八郎左衛門の尉    武田の五郎三郎
   山内左衛門次郎      信濃三郎左衛門の尉
   上野の十郎        上総五郎左衛門の尉
   城の次郎         長江の八郎四郎
  的射手(二五度)
   一番 若狭の前司     氏家の太郎
   二番 下河邊左衛門の尉  駿河四郎左衛門の尉
   三番 小山五郎左衛門の尉 上野五郎左衛門の尉
   四番 伊東大和の次郎   横溝の六郎
   五番 小笠原の六郎    加治八郎左衛門の尉
   六番 佐々木壱岐の前司  葛西の六郎
 

1月24日 癸丑
  二所御精進屋として去年新造せらるる所の御所、御移徙の儀有るべきかの由、摂津の
  前司・出羽の前司・佐渡の前司等に仰せ合わさる。御移徙有るべしてえり。御精進以
  前は、来二十七日たるべきの旨陰陽道これを申す。而るに彼是申す詞一准ならず。或
  いは先ず御移徙有るべしと。或いはただ二所御精進始めの日、渡り初められ御うべし
  と。また二十七日は右府将軍の御忌月、是非に付き然るべからずと。この上仰せに曰
  く、今年ばかりは本御所を掃除せしめ、御精進屋に用いらるべきかてえり。これ等の
  趣、師員朝臣・基綱等を以て、重ねて前の武州に仰せ合わさる。本御所を用いらるる
  の條宜しかるべきの由申せしめ給う。仍って治定すと。