1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

2月4日 壬戌 晴陰
  戌の刻白赤気三條出現す。件の変消え、その東傍に赤気また出現す、長七尺。彼の変
  減じ、猶西傍に赤気一條出現す、四尺か。観る者これを怪しむ。泰貞朝臣最前に御所
  に馳参す。申して云く、この変彗形たり。異名火柱なり。村上の御宇康保年中同変出
  現すと。時に前の武州御前に侯せしめ給う。佐渡の前司基綱・秋田城の介義景・太宰
  の少貳為佐・法印珍誉等祇侯す。次いで晴賢・廣資等参上す。晴賢申して云く、今夜
  陰雲に依って諸星分明ならざるの上は、彗星の類を窺い得るべきに非ず。且つはまた
  軸星無し。旁々不審有り。晴天の時を以て伺い定むべしと。廣資泰貞が説に同ず。仍
  って各々聊か相論に及ぶと雖も、猶一決せずと。
 

2月5日 癸亥 天晴
  将軍家二所の御精進始めなり。
 

2月7日 乙丑
  巳の刻大地震。古老云く、去る建暦年中、今の如きの大動有り。即ちこれ和田左衛門
  の尉義盛叛逆の兆しなり。その外関東に於いて未だ此の如き例有らずと。その後午の
  時・子の刻両度少動す。
 

2月8日 丙寅
  巳の刻地震。昨日両日の間、動揺五箇度なり。
 

2月9日 丁卯
  鶴岡八幡宮の臨時祭例の如し。北條大夫将監経時(束帯)奉幣の御使たり。
 

2月10日 戊辰
  将軍家二所奉幣の為御進発。昨日御出有るべきと雖も、鶴岡臨時祭の事に依って、延
  びて今日に及ぶ。
 

2月12日 庚午
  丑の刻常陸の国鹿嶋社焼亡す。但し不開御殿・奥御殿等は焼けず。当社垂跡以来、未
  だこの災有らざるの由、古老の相謂う所なり。

[百錬抄]
  去る比鹿嶋社焼亡す。垂跡以後この災無し。但し不開の御殿焼けずと。社司参会せず。
  御躰に於いては供僧等取り出し奉ると。
 

2月14日 壬申
  戌の刻走湯山より直に還御す。これ二日の行程なりと。
 

2月16日 甲戌
  去る四日の天変の事、仰せに依って前の武州天文道の輩を召し聚め、尋ね問わしめ給
  う。前の武州持仏堂の廊の廣庇に祇侯す。太宰の少貳為佐・出羽の前司行義・加賀民
  部大夫康持等その座に在り。泰貞・晴賢・資俊・国継・廣資等参入す。尋ね仰せられ
  て云く、去る四日の赤気の事実否を相尋ぬべきの旨、仰せ下さるる所なり。各々所存
  を注進すべし。それに就いて是非を問答すべしてえり。面々これを注進す。泰貞の状
  に云く、陰雲に依って分明これを窺い究めず。但し天変に処せらるべくんば、火柱の
  形かてえり。晴賢の状に云く、推古天皇二十八年並びに天慶二年・元永五年赤気有り。
  彼の三箇度の赤気、すでに今度の気に同ず。但し野火の疑い等有りと。この條彼の所
  々を見伺わざるの間、実否存知難きものか。資俊・国継の状に云く、赤気たりと。廣
  資の状は火柱の由を載す。対馬の前司倫重奉行として、彼の状等を読み申しをはんぬ。
  前の武州これを整えられ、為佐・行義・康持に付け御所に進覧し給う。彼の三人の帰
  り来たるを待たるるの程、面々詞を以て相論に及ぶ。晴賢難じ申して云く、天変に処
  せらるべくんば、火柱の由泰貞の状に載す。頗る言い足らざるなり。当道定め申さず
  んば、上方爭か天変の実否を知ろし食さるべきやと。前の武州太だ甘心せられ給う。
  この間件の三人御所より帰参す。仰せを伝え申して云く、変異たるべくんば、京都よ
  り申すべきか。その時御沙汰有るべきの由と。
 

2月22日 庚辰 天晴
  将軍家御方違えの為遠江の守の名越亭に入御す。御輿を用いらる。前の右馬権の頭・
  北條大夫将監以下供奉す(各々直垂・立烏帽子)。
 

2月23日 辛巳
  名越より還御す。遠州御馬・御剱・鷲羽等を進せらると。今日若君御前魚味・御着袴
  ・御馬召始め等の事、その沙汰有り。佐渡の前司これを奉行す。
 

2月25日 癸未
  長掃部左衛門の尉秀連と高田武者所盛員と、前の武州の御前に於いて対決を遂ぐ。こ
  れ上野の国菅野庄内境相論の事なり。盛員の奸訴分明の間、式條に任せ盛員の所領一
  所を召し放つべきの由、当座に於いて仰せ含めらる。籐内左衛門の尉能兼・加世の五
  郎李村等御使たるべしと。
 

2月26日 甲申
  廣澤三郎兵衛の尉實能と同彌次郎と、郎従の事に依って訴論に及ぶ。今日その是非を
  召し決せらる。御前に於いて實能直に裁許を蒙る。郎従伴士以下に於いては、早く相
  従うべきの由と。満定当座に於いてこれを書く。その御教書、前の武州御判を加うの
  後、今より實能に授け給うと。
 

2月30日 戊子
  去る四日の赤気の事、都鄙に於いて彗星出現の由風聞す。一條殿(禅定殿下)より御
  書到来するの間、泰貞・晴賢等の注進状を以て、明暁京都に進せられんが為、御沙汰
  を経らると。