1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

4月2日 庚申
  御所の東渡廊に於いて千度御祓いを行わる。将軍家小御所の簾中に御坐す。泰貞・晴
  賢・宣賢・国継・資宣・廣資・泰房・晴平・晴尚・泰兼等これを奉仕す。内蔵権の頭
  泰親簾下に侯し、御贖物を進せしむ。所役は諸大夫五人・手長小侍等なり。禄は各々
  絹一匹、政所沙汰し進すと。
 

4月3日 辛酉 霽
  戌の刻大地震。南風。由比浦の大鳥居内の拝殿潮に引かれ流失す。着岸の船十余艘破
  損す。
 

4月5日 癸亥 霽
  六浦道造り始めらる。これ急速の沙汰有るべきの由、去年の冬評議を経らると雖も、
  新路を始めらるること、大犯土たるの間、明春三月以後造らるべきの旨重ねて治定す
  と。仍って今日前の武州その所に監臨せしめ給うの間、諸人群集し、各々土石を運ぶ
  と。
 

4月16日 甲戌
  武田伊豆入道光蓮去る月の御沙汰の趣を漏れ聞き、殊にこれを謝し申す。本より異心
  を存ぜざるの処、巷説有るに依って今更に御沙汰に及ぶか。且つは驚き存じ且つは恐
  怖すと。剰え子々孫々と雖も、敢えて悪事を企てべからざるの旨起請文を書き、平左
  衛門の尉盛綱に付き前の武州に献ず。即ちこれを召し置かれ、今日評定の次いでを以
  て、清左衛門の尉満定をして衆中に廻覧せしむ。起請の旨趣然るべし。諸人同じくこ
  の事有るべきの由群議を凝らさる。当参の衆より始めて、一流の如き家督に触れ仰せ
  らると。

[百錬抄]
  禅定太閤東寺に於いて灌頂有り。行遍僧正大阿闍梨たり。諸卿多く以て参集す。後朝
  勧賞を仰せらると。
 

4月25日 癸未
  田地を以て博奕の賭に為す事、件の所に於いては、召し放たるべきの由定めらる。こ
  れ大宮の三郎盛員と豊嶋の又太郎時光と、武蔵の国豊嶋庄犬食名を相論す。大宮の有
  忠の打つ四一半に事起こるなり。各々相互に訴え申すと雖も、遂に彼の所領を収公せ
  らると。対馬左衛門の尉仲康奉行たり。また若狭の四郎忠清御下知違背の科に依って、
  安居院大宮の篝屋並びに膳所屋を造進すべきの旨、今日同じく仰せ付けらる。これ忠
  清の所領若狭の国瓜生庄の雑掌成安訴え申すが故なり。
 

4月27日 乙酉
  天変地妖の御祈りの為、御所の巽角に於いて天地災変祭を行わる。泰貞朝臣これを奉
  仕す。将軍家その庭に出御すと。
 

4月29日 丁亥
  囚人逐電の事、預人の罪科軽からず。過怠料を召し、新大仏殿造営に寄進せらるべき
  の由、清左衛門の尉満定の奉行として、今日議定有り。新田の太郎政義の分三千疋、
  毛呂の五郎入道蓮光(召人紀伊の国三上庄の狼藉人政所の次郎高氏を預かる)の分五
  千疋、各々来八月中弁償せしむべしと。これ孫子深利の五郎為経の咎たるの由、蓮光
  訴え申すと雖も、これを尋ね下され、蓮光猶これを遁れずと。