1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

5月5日 壬辰
  鶴岡八幡宮の神事例の如し。将軍家御参宮。前の武州扈従し給う。
 

5月6日 癸巳
  臨時の評定有り。昨の式日鶴岡神事に依って延引するが故なり。外記左衛門の尉俊平
  の奉行として、本庄四郎左衛門の尉時家所帯を召し放たると。これ小林の小次郎時景
  の所従籐平太の妻女路次を通るの処、時家馬二疋(一疋乗馬・一疋荷有り)を押し取
  り、口付け小次郎の男を搦め取りをはんぬ。狼藉の科に行わるべきの由、時景の訴え
  申しをはんぬるに依ってなり。
 

5月10日 丁酉
  江民部大夫以康問注所奉行の間、非勘の咎有るに就いて、所領一所を召し放たれをは
  んぬ。而るに傍輩中に御計有るべきの由、兼日その法を儲けられ、宮内左衛門の尉に
  賜うべしと。これ紀伊五郎兵衛入道寂西と同七郎左衛門の尉重綱と、相論の陸奥の国
  小田保追入・若木村御下知の事なり。また河内式部大夫親行の奉行として、寄人兵衛
  次郎景村所領陸奥の国賀美郡栗谷澤村を収公せられ、中に賜うべしと。これ景村博奕
  の事を為すの由、傍輩野田左近将監秀遠訴え申すの処、その科露顕せしむに依ってな
  り。今日海老名左衛門の尉忠行京都より帰参す。去る月十六日禅定殿下東大寺に於い
  て御灌頂無為にこれを遂げらるると。
 

5月14日 辛丑
  六浦路造るの事、この間頗る懈緩す。今日前の武州監臨し給う。御乗馬を以て土石を
  運ばしめ給う。仍って観る者奔営せざると云うこと莫しと。
 

5月20日 丁未 雨降る
  今日、佐藤民部大夫業時その科有るに依って評定衆を除かる。これ落書以下奇怪を現
  すと。
 

5月23日 庚戌
  肥後の国の御家人大町の次郎通信と多々良の次郎通定と、当国大町庄地頭職の事を相
  論す。御恩地を以て売買すべからざるの由治定しをはんぬ。然れども別の御計として、
  通信に賜う所なり。これその心操せ私曲無きかの由、前の武州日来内々御覧置くの上、
  当所を召し放たるに於いては活計を失うべきの由、愁歎せしむに依って、殊にこれを
  申し行わると。
 

5月26日 癸丑
  散位業時の事、その科を宥められ難きに依って、鎮西に配流すと。
 

5月28日 乙卯
  長井散位従五位上大江朝臣時廣法師卒す。
 

5月29日 丙辰
  評定有り。鶴岡の職掌常陸の国国井住人悪別当家重博奕の科に依って、神職を解かる。
  会合衆飯野兵衛の尉忠久並びに五郎三郎・孫三郎等、罪科に処すべきの旨、彼等の主
  人国井の五郎三郎政氏・那珂左衛門入道道願に仰せ含めらると。次いで所処の甲乙人、
  神人と号し、多人の煩いを致すの由その聞こえ有るに依って、本数を置かるべきの趣、
  当座より宮寺に相触れらると。外記左衛門の尉俊平奉行たり。