1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

6月8日 甲子
  佐々木近江入道虚假遁世す。子孫の事永く知るべからざるの由言上すと。
 

6月9日 乙丑
  炎旱旬を渉るの間、鶴岡の別当僧都定親仰せを承り、江嶋に於いて祈雨法を修す。ま
  た同じく千度御祓いを行わる。定昌・泰貞・晴賢・宣賢・国継・資宣・廣資・泰房・
  晴平・泰宗等これを奉仕す(禄物各々絹一疋)。宮内左衛門の尉公景・近江大夫御使
  たりと。
 

6月10日 丙寅
  洛中殺害人等の事その沙汰有り。重科に至らば、使の廰の沙汰たりと雖も、これを申
  し給わり、所当の咎に行うべきの由、六波羅に仰せ遣わさると。
 

6月11日 丁卯
  雑人訴訟の事、国々に相分ち奉行人を付けらる。而るに度々相触れらるると雖も、事
  行わざるの時、御教書を申すの間、オウ弱の訴訟人、数反の往還日月を経る事不便な
  り。自今以後御教書を申し成すべからず。奉行人の奉書を以て下知を加うべきの旨仰
  せ出さると。
 

6月12日 戊辰 巳の刻以後甘雨、酉の刻に及び天晴
  既に数日炎旱なり。昨日聊か陰雲、雨灑ぎ始むと。夜に入り御所に於いて属星祭を始
  行せらる。晴賢朝臣これを奉仕す。将軍家その庭に出御有るべしと雖も、極熱の折節
  たるに依って、内蔵権の頭資親をして御撫物を渡せしめ給うと。
 

6月15日 辛未
  六波羅の問注記並びに文書等調進するの間、勤節有るべき事、今日その沙汰有る所な
  り。
 

6月16日 壬申
  小河高太入道直季出仕を止めらる。これ源八兼頼(筑後の国御家人)の妻女に密懐す
  るの科に依ってなり。その上男女共に所領半分を召し放たるべしと。彼の領所等皆筑
  後の国に在るの間、御教書を以て守護人遠江式部大夫に仰せらる。この事去る三月晦
・ 日その沙汰有りと雖も、これ等の事終わり晩に及びをはんぬ。翌日は三御精進たるに
  依ってこれを閣かる。延びて今日に到ると。内記兵庫の允祐持これを奉行す。また諸
  人謀反人の如きを預かり置くの時、逃失せしめば、重科たるに依って所領を召し放つ
  べし。その所持物等を以て、寺社の修理に付けらるべきの由議定有り。但し逃げ脱す
  の後、三箇月は延引すべし。その期を過ぎらば、事の躰に随い殊にその沙汰有るべき
  の由、侍所司に仰せ、普く相触れらるべしと。
 

6月17日 癸酉
  若君御前御生髪なり。前の武州布衣を着し参仕せしめられ給う。毛利蔵人泰光・左衛
  門大夫定範以下、父母兼備の諸大夫侍所役に侯す。師員朝臣・基綱等これを奉行す。
  事毎に雑掌を召し付けられず。将軍家の御沙汰として、殊に結構の儀に及ぶと。
 

6月18日 甲戌
  近年西国諸社の神人・権門の寄人、寄沙汰を好み狼藉を致し、甲乙人を煩わしむるの
  由その聞こえ有るに依って、今日評議を経らる。然る如きの輩に於いては、本所に相
  触れその身を尋ね出し、遁れる所無くば、関東に召し進すべきの旨、六波羅に仰せ遣
  わさるべしと。
 

6月27日 癸未
  前の武州聊か御不例と。
 

6月28日 甲申
  臨時の評議有り。故佐貫の八郎時綱の養子太郎時信訴え申す後家藤原氏改嫁の由の事、
  今日沙汰を経らる。式目以前の改嫁たるの間、罪科に及ばず。仍って本夫の遺領上野
  の国赤岩郷に於いては後家領掌せしむべしと。対馬左衛門の尉奉行たり。また北條左
  親衛並びに甲斐の前司泰秀等評定衆に加うと。