1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

8月7日 壬戌
  新造の北斗堂供養の間、導師以下の事、御所に於いてその沙汰有り。次いで日時の事、
  陰陽道兼日来二十五日を挙げ申す所なり。すでに九月節たるべし。息災の御願尤も彼
  の節を除かるべきかの由、傾け申すの輩有るに依って、今日晴賢朝臣等を召し出しこ
  れを尋ねらる。申して云く、五九両月は、尤も齋月たるの間、多く以て堂塔供養の先
  規有るの由言上す。仍ってこれを用いらるべしと。
 

8月11日 丙寅
  駿河の四郎(式部の丞)家村、去る月二十五日の除目の聞書を持参す。披覧するに、
  彼の日叙爵せしむの由これを申す。六月二十七日式部の丞に任じをはんぬ。
 

8月12日 [北條九代記]
  経時従五位上に叙す。
 

8月15日 庚午
  鶴岡の放生会なり。将軍家御出で。御車にキョウすの期に及び兵庫の頭御剱を取り、
  役人上総式部の丞時秀に授けんと欲するの処、御剱簀子の上に抜け落つ。これ両人の
  失礼に非ず、時の怪異なり。仍って暫く御出の儀を抑えられ、金窪左衛門大夫行親を
  召しこれを尋ね問わる。行親申して云く、人物に相応せず。神宝たるべきの故今この
  事有りと。行親剱刀の事を見て、既に通を得るが如し。多く以てその證を顕わす。而
  るにこの御剱に就いて、先日御夢想の告げ有り。忽ち以て符合せしむ。旁々御信心を
  催すに依って、時秀を以て件の御剱を走湯山に奉らる。進発の後御参宮。若狭の前司
  泰村御剱を役す。近江四郎左衛門の尉氏信御調度を懸く。法会・舞楽例の如し。酉の
  刻還御す。今夕天の霽を迎え、階の間の御簾を上げられ、将軍家明月を翫ばしめ御う。
  前の右馬権の頭・相模三郎入道・伊賀式部大夫入道・佐渡大夫判官等参上す。当座の
  和歌御会有り。女房懐紙を進せらると。
 

8月16日 辛未
  将軍家御参宮。大夫の尉基政・行久等供奉す。馬場の儀例の如し。
 

8月22日 丁丑
  午の刻新造の北斗堂に三尺の北斗七星像、並びに一尺の二十八宿・十二宮神像各々一
  体、及び三尺の一字金輪像等を安置し奉らると。夜に入り堂鎮法・同御祭等を行わる
  と。
 

8月25日 庚辰
  午の刻北斗堂供養を遂げらる。将軍家(御束帯・御車)御参堂。曼陀羅供の儀なり。
  大阿闍梨は卿僧正快雅。執蓋は肥前太郎左衛門の尉胤家。兵庫の頭家員・江石見の前
  司能行その綱を執る。讃衆八人なり。前の隼人の正光重会場の事を奉行す。今日供奉
  人の行列、
  前駈(下臈先たり)
   周防の前司親實    能登の前司仲能    少輔左近大夫将監佐房
   左近蔵人親光     白河判官代為親
  御後
   前の右馬権の頭    宮内少輔       北條左近大夫将監
   陸奥掃部の助     備前の守       若狭の前司
   越後掃部の助     佐渡の前司      秋田城の介
   能登の守       下野の前司      太宰の少貳
   大蔵権の少輔     佐々木壱岐の前司   遠山前の大蔵少輔
   出羽の前司      伊賀の前司      信濃民部大夫
   小山五郎左衛門の尉  関左衛門の尉     薬師寺左衛門の尉
   大曽禰兵衛の尉    駿河五郎左衛門の尉  佐原五郎左衛門の尉
   大多和新左衛門の尉  伊賀次郎左衛門の尉  安積六郎左衛門の尉
   加藤左衛門の尉    武藤左衛門の尉    後藤左衛門の尉
   宇佐美左衛門の尉   宇都宮五郎左衛門の尉 大隅太郎左衛門の尉
   太宰三郎左衛門の尉  弥善太左衛門の尉
  廷尉
   佐渡大夫判官     宇都宮大夫判官    隠岐大夫判官
   河津判官       笠間判官
  随兵十二騎(最末)
   北條五郎兵衛の尉時頼   遠江式部大夫時章    河越掃部の助泰重
   駿河式部大夫家村     上総修理の亮政秀    武田の六郎信長
   大須賀七郎左衛門の尉重信 近江四郎左衛門の尉氏信 和泉次郎左衛門の尉景氏
   伊賀三郎左衛門の尉祐盛  上野五郎兵衛の尉重光  梶原左衛門の尉景俊
 

8月28日 癸未
  今日の評議、諸人訴論対決の時、懸物状を進す事、その法を定めらると。