1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

9月3日 戊子
  信濃の国の住人奈古の又太郎は、承久三年大乱の時、勲功を施しながらその賞に漏れ
  るの由、頻りにこれを愁い申すと雖も、便宜の地無きに依って、空しく年序を送りを
  はんぬ。但し猶此の如き不幸の類有りと雖も、奈古の軍忠に於いてはその中に勝るの
  間、相構えて賞に行わるべきの由、故匠作(時氏)の遺命なり。仍って左親衛その趣
  を違えざるの為、今日彼の款状を執り、別して御詞を加え、御澤奉行人師員朝臣の許
  に仰せ遣わさる。師員御返事に申して云く、
   奈古の又太郎申す勲功の賞の事、折紙に給い預かり候いをはんぬ。早く申し入るべ
   く候。恐々謹言。
                    師員
   北條大夫将監殿(御返事)
 

9月7日 壬辰
  臨時の評定有り。出羽の前司行義の奉行として、細工所の輩恩澤の事沙汰有り。野世
  の五郎相模の国横山五郎の跡新田・垣内等を拝領す。これ細工故日向房實圓本給の地
  なり。女子頻りに子細を申すと雖も、芸能に付け充て給いをはんぬ。今また御用人た
  るの分、勿論と。
 

9月9日 甲午
  鶴岡の神事例の如し。将軍家御参宮。
 

9月10日 乙未
  御禊ぎ・大甞会用途の事、田地一段毎に、銭二百文を進済すべきの由宣下す。関東御
  分国並びに没官御領等に於いては、直に進納すべきの旨、公家より仰せ下されをはん
  ぬ。その外の地頭所々の事、今日議定有り。来十月以前沙汰を致すべきの由、御教書
  を下さる。
 

9月11日 丙申
  洛中警衛の事厳密の沙汰に及ぶ。篝を辻々に懸くべき続松料物用途、毎年一所別に千
  疋これを付けらる。彼の用途弁償の地に於いては、関東の公事並びに守護の入部を停
  止すべきの由と。
 

9月13日 戊戌
  今夜御所に於いて柿本影供を行わる。広御所の出居に於いてその儀有り。卿僧正快雅
  式伽陀を読講す。垂髪は羅ゴ丸・如意丸・摩尼珠丸・妙珠丸と。管弦の兒童等並びに
  樂所の輩これに候す。その後和歌を披講せらる。前の右馬権の頭・陸奥掃部の助・相
  模三郎入道・佐渡の前司・同大夫判官・三浦能登の守・伊賀式部大夫入道・河内式部
  大夫等参候すと。
 

9月14日 己亥
  北條左親衛狩猟の為藍澤に行き向かわる。若狭の前司・小山五郎左衛門の尉・駿河式
  部大夫・同五郎左衛門の尉・下河邊左衛門の尉・海野左衛門太郎等扈従す。また甲斐
  ・信濃両国の住人数輩、猟師等を相具し渡御を待ち奉ると。
 

9月15日 庚子
  月蝕正現す。圓親法印・珍譽法印等御祈りを勤仕すと。
 

9月22日 丁未
  左親衛藍澤より帰らる。数日山野を踏み、熊猪鹿多くこれを獲る。その中熊一つは、
  親衛引目を以てこれを射取る。先代未聞の珍事たるの由、諸人一同感じ申す。また下
  河邊左衛門の尉行光は、幼少より大田・下河邊等の田畔に住む。定めて此の如き狩場
  に馴れざるかの由、傍輩侮り思うに依って、ややもすればその堪不を試みんが為、走
  獣の便宜毎にこれを追い合わしむ。行光必ずこれを射取る。然れば今度の物員、独り
  行光に在り。但し若狭の前司相論に及ぶと。行光は故実の射手たるの上、毎年那須の
  狩倉に交り、大堪嶺谷を馳せるなりと。