1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

10月9日 癸亥
  子の刻大流星天を亘る。その跡白雲気なり。暫く消えず。人これを怪しむ。
 

10月11日 乙丑 雨降る
  御所に於いて和歌御会有り。前の右典厩・隆弁僧都・親行・基綱・基政・光西等参上
  す。
 

10月13日 丁卯
  亥の刻地震。
 

10月19日 癸酉
  群盗の張本新平の太郎・同八郎・田井の十郎等逐電し跡を晦しをはんぬ。当時大和の
  国に在るの由風聞するの間、その身を召し渡さるべきの旨、興福寺の別当僧正坊に仰
  せらると。
 

10月22日 丙子
  武蔵野を以て水田を開かるべきの由議定しをはんぬ。これに就いて多摩河の水を懸け
  上げらるべきの間、犯土の儀たるべきか。将又将軍家の御沙汰たるべきか。私計たる
  べきか。賢慮猶一決せられ難し。仍って今日前の武州陰陽師泰貞・晴賢等の朝臣を召
  し示し合わさる。各々一同申して云く、堰溝耕作田畠の事は、土用の方角の沙汰に及
  ばずと雖も、この事に於いては、すでに御沙汰を始めたるか。大犯土と謂うべきもの
  か。将軍家の御沙汰に非ずと雖も、私の御方違え宜しかるべきか。若くは国司の沙汰
  たるべきかと。前の武州また仰せられて曰く、私の沙汰に似たり雖も、耕作の後は、
  御所の御計として人々に賜うべし。然からば御所の御沙汰たるべし。北方は当時王相
  か。明年よりまた大将軍方たるべし。御方違えの御本所を見定むべしと。武藤左衛門
  の尉頼親の奉行として、泰貞・晴賢を相具し、武蔵の国海月郡に行き向かう。彼の所
  より猶北方(亥方と)たり。即ち両人前の武州亭に帰参し、この由を申す。秋田城の
  介の所領同国鶴見郷を以て御本所と為すべきの旨、泰貞等一同せしむの間、入御有る
  べきの由と。摂津の前司師員・毛利蔵人大夫入道西阿・民部大夫入道行然・佐渡の前
  司基綱・出羽の前司行義・秋田城の介義景・太宰の少貳為祐・加賀民部大夫康持等、
  群議治定の後、行義・義景を泰貞・晴賢に相副え、御所に申さる。御前に召し入れ、
  その子細を聞こし食さる。仰せに曰く、冬至以後、鶴見は艮方に相当たり、王相方た
  るべし。塞方に御方違えを始める事その憚り有り。冬至以前先ず渡御有るべし。何日
  を用いらるべきやと。泰貞等申して云く、来月四日宜しかるべし。その後立春の御方
  違え有るべきなりと。今夜半更亀谷の辺俄に騒動し、程無く静謐す。これ群盗武蔵大
  路の民居を襲うの間、隠岐次郎左衛門の尉泰清・加地八郎左衛門の尉信朝並びに近隣
  の輩馳せ向かい虜えしむるが故なり。