1241年 (仁治2年 辛丑)
 
 

11月3日 丙戌
  畿内・西海の悪徒蜂起するの間禁遏すべき事、諸国博奕を停止すべき事、評議に及ぶ
  と。
 

11月4日 丁亥 天霽
  今朝将軍家武蔵野開発の御方違えの為、秋田城の介義景の武蔵の国鶴見別庄に渡御す。
  御布衣・御輿。御力者三手。供奉人水干を着す。宿老野箭を帯す。若輩征矢たり。面
  々行粧を刷い、頗る以て壮観なり。前の武州参り給う。申の刻着御す。即ち笠懸有り。
  勝負を決すべし。その雌雄に就いて、鎌倉に於いて所課を定むべきの由仰せ下さるる
  の間、各々箭員を思うと。
  射手
   北條大夫将監     武蔵の守       相模式部大夫
   北條五郎兵衛の尉   遠江式部大夫     陸奥掃部の助
   佐々木壱岐の前司   若狭の前司      後藤大夫判官
   上総式部大夫     伊賀次郎左衛門の尉  佐原五郎左衛門の尉
   上野の十郎      下河邊左衛門次郎   加地八郎左衛門の尉
   城の次郎       小笠原の六郎     佐原六郎兵衛の尉
   小山五郎左衛門の尉  駿河式部大夫
  念人
   御所         前の武州       宮内少輔
   遠江前司       右馬権の助      毛利蔵人大夫入道
   甲斐の前司      駿河の守       秋田城の介
   佐渡の前司      三浦能登の守     遠山大蔵少輔
   下野の前司      大蔵権の少輔     出羽の前司
   伊東大和の前司    太宰の少貳      加賀民部大夫
   信濃民部大夫     筑後伊賀の前司    近江四郎左衛門の尉
   但馬の守
  この人数の外今日の供奉人
   隠岐大夫判官     隠岐前の大蔵少輔   笠間判官
   大須賀左衛門の尉   隠岐次郎左衛門の尉  大多和新左衛門の尉
   大隅左衛門の尉    三村右衛門の尉    狩野五郎左衛門の尉
   加地七郎左衛門の尉  加藤左衛門の尉    宇佐美左衛門の尉
   弥次郎左衛門の尉   彌善太左衛門の尉   信濃四郎左衛門の尉
   武藤左衛門の尉    長尾三郎兵衛の尉   土肥の次郎
   田中の太郎      和泉七郎左衛門の尉  宇都宮五郎左衛門の尉
   前の隼人の正     毛利蔵人       但馬左衛門大夫
 

11月5日 戊子
  鶴見より還御す。この次いでを以て海辺を歴覧せしめ御う。また犬追物(三十疋と)
  有り。
 

11月17日 庚子 天霽
  御家人等、未だ老耄に及ばず、病無くして、御免を蒙らず出家せしめ、猶所領を知行
  す。また関東の御恩に浴しながら、京都に居住する事、自今以後停止せらるべきの由
  評定有りと。また若君御魚味以下の事御沙汰に及ぶと。今日箕匂の太郎師政去る承久
  三年の勲功の勧賞に募り、武蔵の国多摩野の荒野を拝領す。これ父左近大夫政高故匠
  作(時房)の陣に加わり、勢多橋に於いて軍忠を抽んでをはんぬ。仍って連々その賞
  を申すと雖も、その地無きに依って延引す。而るに今彼の所水田を開かるべきの間、
  兼ねて御計有る所なりと。
 

11月21日 甲辰 天晴、風静まる
  今日将軍家の若君御前御着袴・魚味なり。未の刻二棟の御所南面の簾中に於いてその
  儀有り。先ず魚味、次いで御着袴。承久の佳例に任せ、前の武州御腰を結び奉らしめ
  給う。陪膳は北條大夫将監、役送は筑前権の守重輔、同手長は彌次郎左衛門の尉親盛
  ・但馬左衛門大夫定範等なり。その後始めて綿衣を着け給うと。
 

11月25日 戊申
  今夕前の武州の御亭御酒宴有り。北條親衛・陸奥掃部の助・若狭の前司・佐渡の前司
  等着座す。信濃民部大夫入道・大田民部大夫等文士数輩同じく参候す。この間御雑談
  に及ぶ。多くはこれ理世の事なり。亭主親衛に諫められて曰く、文を好み事を為し、
  武家の政道を扶くべし。且つは陸奥掃部の助に相談せらるべし。凡そ両人相互に水魚
  の思いを成さるべきの由と。仍って各々理に着く。今夜の御会合この事を以て詮と為
  すと。
 

11月27日 庚戌
  当将軍家御時の関東の射手の似絵図せらるべきの由、その沙汰有り。今日評定の次い
  でを以て先ずその人数を注す。陸奥掃部の助・若狭の前司・佐渡の前司・秋田城の介
  の如き、意見者としてこれを用捨せらる。京都より尋ね下さるるに就いて、進覧せら
  れんが為なり。而るに前の武州の祇候人、達者たるに依って召し出さるるの輩加えら
  るべきや否や、再往の沙汰に及ぶ。これ前の武州然るべからざるの旨、御色代有るが
  故なり。彼の家礼を致すと雖も、本御家人たるなり。また公役を勤めるの上、堪能た
  るの族、何の憚りに依って除かるべきやの由遂に治定す。横溝の六郎・山内左衛門次
  郎等、尤もその人数たるべしと。但し横溝の事、前の武州頻りに辞し申し給う。片目
  疵有るが故か。
 

11月29日 壬子
  未の刻若宮大路下下馬橋の辺騒動す。これ小山一族等と三浦の輩と喧嘩有り。両方の
  縁者馳せ集まり群を成すが故なり。前の武州太だ驚かしめ給う。即ち佐渡の前司基綱
  ・平左衛門の尉盛綱等を遣わし宥めしめ給うの間、静謐すと。事の起こりは、若狭の
  前司泰村・能登の守光村・四郎式部大夫家村以下兄弟・親類として、下下馬橋西頬の
  好色家に於いて酒宴乱舞会有り。結城大蔵権の少輔朝廣・小山五郎左衛門の尉長村・
  長沼左衛門の尉時宗以下の一門、同東頬に於いてまたこの興遊を催す。時に上野の十
  郎朝村(朝廣舎弟)彼の座を起ち、遠笠懸の為由比浦に向かうの処、先ず門前に於い
  て犬を射追い出す。その箭誤って三浦会所の簾中に入る。朝村雑色男をしてこの箭を
  乞わしむ。家村出し與うべからざるの由骨張る。これに依って過言に及ぶと。件の両
  家その好有り。日来互いに異心無し。今日の確執、天魔その性に入るかと。
 

11月30日 癸丑
  駿河四郎式部大夫家村・上野の十郎朝村出仕を止めらる。昨日の喧嘩、職として彼等
  の武勇より起こると。凡そこの事に就いて、勘発に預かるの輩これ多し。指せる親昵
  に非ずと雖も、ただ所縁を称し両方に相分かれ、本人等と同じく確執せしむが故なり。
  また北條左親衛は、祇候人をして兵具を帯かしめ、若狭の前司方に遣わさる。同武衛
  は、両方の子細を訪われるに及ばず。これに依って前の武州御諷詞に云く、各々将来
  御後見の器なり。諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。親衛の所為太だ軽骨な
  り。暫く前に来るべからず。武衛の斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべしと。
  次いで若狭の前司・大蔵権の少輔・小山五郎左衛門の尉を招き、仰せられて曰く、互
  いに一家数輩の棟梁として、尤も身を全うし不慮の凶事を禦ぐべきの処、私の武威を
  輝かし自滅を好むの條、愚案の致す所か。向後の事殊に謹慎せしむべきの由と。皆以
  て敬屈し、敢えて陳謝無しと。今日駿河の守有時評定衆を辞し申すと雖も、許容無し
  と。