1242年 (仁治3年 壬寅)
 
 

(吾妻鏡に記載無し)
 

1月5日 [北條九代記]
  南方雷鳴。

1月8日 [北條九代記]
  また雷鳴一声。
[皇代記]
  丑の刻閑院清涼殿に崩ず(年十二)。

1月9日 壬辰 [北條九代記]
  主上閑院に崩御す(御年十二)。
[増鏡]
  正月の五日より、内の上(四條)例ならぬ事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ
  給はねば、いとさうざうしく、人々おぼしあへるに、九日の暁、かくれさせ給ひぬと
  て、のヽしりあへる。
[百錬抄]
  夜半より天下物騒。諸社御誦経を進せらる。暁更に及び御絶入と。飛脚を以て関東に
  仰せらると。言語の及ぶ所に非ず。

*[増鏡]
  いまだ御嗣もおはしまさず、あづまへぞ告げやりける、将軍は大殿の御子、今は大納
  言ときこゆる。御後身は承久に上りし泰時朝臣なり。時房と一所にて、小弓射させ、
  酒もりなどして、心とけたるほどなりけるに、「京よりの走り馬」といへば、何事な
  らむ、と驚きながら、使召しよせて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならね
  ば、その座より、やがて神事はじめて、若宮の社にて、鬮をぞとりける。
  その程、都には、佐渡院の宮たちにやなど聞えければ、修明門院(順徳御母重子)に
  も心ときめきして、うちうちその御用意などし給ふ。承明門院(土御門御母在子)も、
  もしやなど、さまざま御祈したまふ。

1月12日 乙未 [百錬抄]
  禁裏議定せずと。関東の左右を待たるるの間、毎時若亡有り。哀れむべしと。数日空
  位未だ先規を聞かず。上古両三年この事有り。この度の儀に似ず。その主相譲るの神
  器を受けざるの間なり。

1月13日 [北條九代記]
  上総式部の丞時秀、主上崩御の事に依って、御使として上洛す。

1月14日 [北條九代記]
  秋田城の介義景、出羽の前司行義御使として上洛す。これ建仁の聖主第五皇子代を継
  ぎ御う事、定めらるる事たるなり。

1月16日 己亥 陰晴不定 [平戸記]
  左大弁来たる。また大蔵卿来たり世事を談る。東使今日到来すべしと。相待たるるの
  間、一條殿退出の便路なり。密事等相談す。凡そ空位数日に及ぶ。偏にこれ関東の所
  為なり。不便々々。

1月17日 庚子 陰晴不定 [平戸記]
  今日東脚を相待たるると。然れども無音空しく暮れをはんぬ。晩に及び大府卿立ち過
  ぐる間、一條殿只今退出すと。世事を談る。阿波院宮武士の縁に依って、一定御出立
  の由、世以て風聞す。件の縁者、前の内府(言通公)妻は泰時・重時等の姉妹なり。
  此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと。彼の公世務を執らば
  天下の至極か。世以て歎を為すと。

1月19日 [皇年代略記]
  関東両使(義景・行義)上洛し、立王の事を申す。
[平戸記]
  関東の飛脚この申の刻ばかり武家に着くと。この由を以て且つは一條殿に申すと。こ
  れに依って京中物騒すと。(中略)殿下入御す。仰せに云く、東使到来す。然れども
  その仁未だ聞かず。只今の間その使一條殿に参ると。事定めは、今夜即ちその礼を行
  わるべきの由、兼ねて以て議定せらるるなり。予申して云く、今夜すでに深更に及び
  をはんぬ。春の夜曙易く、もし白昼に及び、劔璽大路を渡せしめ給うの條如何。能く
  御案有るべきか。仰せに云く、この事尤も然るべし。(略)暫く基邦朝臣と言談する
  の処、大府卿密々に消息を送りて云く、飛脚の聞こえに仍って一條殿に参候す。使只
  今参入し、阿波院宮宜しかるべきの由申せしむるの間、ほぼ聞く所なりと。(略)後
  聞、頭の左中弁定嗣朝臣、一條殿より御使として殿下に馳参す。今夜即ち遂行せらる
  べきの由、申せしめ給うと。然れども予の申状の如く申せしめ給うと。仍って今夜行
  われず。その礼明日行わるべしと。(略)関東使二人差し進す。十四日出国、六ヶ日
  に京着すと。勢多より先ず使者を進すと。
**[保暦間記]
  関東の使者秋田城介義景並びに出羽の前司行義、彼等両使として上洛す。京中を尋奉
  るに人知らず。或古御所に宮渡せ給うと慥に聞て、義景参て阿波院の宮の御所に渡り
  為し給うと申せば、実かと問ければ、老尼一人出て、是に御座候と申しければ、亦申
  上べき人もなかりける程に、義景草深き庭中に畏て、破たる御簾の内を守て、御位を
  譲せ給候使参て候と三度直奏す。是を聞食ける宮の御心地いか計なりけん。頓て義景
  大番なりければ、扉倒たる門の脇に唐笠張立て陣屋にして守護し奉る。

1月20日 [皇年代略記]
  新主を大炊御門万里小路隆親卿の亭に移す。
[五代帝王物語]
  さて新帝はやがて土御門殿にて御元服有り。左大臣(良實)加冠、頭の左中弁(定嗣
  朝臣)理髪なり。今日冷泉万里小路の御所に入せ給て、賢所劔璽などわたしまいらせ
  て践祚の儀あり。
[皇代記]
  践祚、先ず御元服(年二十三)。四條院崩御、関東に仰せ合わさるるの間、空位十二
  ヶ日と。
[平戸記]
  今夜承明門院に於いて、先ず御元服の事有りと。修理権大夫惟忠朝臣(彼御辺の縁者
  と)奉行す。左大臣加冠。蔵人頭の左中弁定嗣朝臣理髪。事々省略密儀なり。これ兼
  日沙汰の趣なり。御装束本所用意無きか。相国禅門俄に□しむと(寸法狭少見苦しと)。
  今夜御元服の後、冷泉万里小路四條大納言の第(件の亭兼日仰せを奉り、予め以て用
  意するなり)に渡御す。その事蔵人の佐時継奉行すと。殿下より御車を献る。殿上人
  十人供奉す。件の輩皆源氏の殿上人を用いらる(定平朝臣以下)。その中時継独り異
  姓の者なり(件の人また彼の縁者たるの故か)。扈従の公卿三人(前の内府子息等な
  り)。殿下の御随臣一人祇候すと。深更に及び劔璽を渡さる。途中深泥、人々鼻を舐
  る。事毎に違例、子細に及ばず。

1月24日 [北條九代記]
  大雪降る。殆ど先規に超ゆ。

1月25日 [増鏡]
  閑院殿には追号のさだめ、御わざの事などさだめありけれ。二十五日に、東山の泉涌
  寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四條院と申すなるべし。やがてかの寺へ、御庄な
  どよせて、今に御菩提を祈り申し侍るも、前の世のゆえありけるにや。
 

2月15日 [五代帝王物語]
  新帝政始あり。

2月28日 庚辰 晴 [平戸記]
  今日四條院御正日なり。別の御仏事無しと。ただ七ヶ日の御仏事ばかりを行わると。
  近年議定の如く、指せる召しに非ざるの外、出仕せざるの上、旧院の辺殊に疎遠、連
  々出仕せざるの間、御仏事の時、一度参らず。仍って思いながら不参なり。
 

3月18日 [玉蘂]
  今日新帝(後嵯峨)即位なり。日出の後右大臣蓬屋の前を過ぎしめ給う。これ内裏(冷
  泉万里小路、四條大納言の亭なり)に参り宣命を奏し位記の筥を給い官庁に向かう。
  幕を給うに依ってか。中能定朝臣一人御共に候す。巳の刻行幸。すでに出御有らんと
  欲すと。仍って見物の為密々大炊御門東洞院に向かう。武者警固すと雖も煩違無く入
  りをはんぬ。

3月20日 [北條九代記]
  鳥祭文式を定めらる。甲斐の前司これを奉行す。

3月25日 [北條九代記]
  光明峯寺摂政の二男(良實)関白の詔を蒙り、氏の長者と為す。
[玉蘂]
  今日左大臣殿、内覧の宣旨を蒙り給うべし。仍って日没の後、束帯を着し一條殿に参
  る。この間関白上表有るか。使いは中将実隆朝臣。

3月29日 [北條九代記]
  良實牛車を賜い随身兵仗を聴さる。
[玉蘂]
  今日新関白殿、拝賀せしめ給うべし。未の刻の由強いてその催し有り。秉燭の程季実
  を相具し一條殿に参る。人々多く参入し、御出居方に参る。
 

4月22日 甲戌 晴 [平戸記]
  吉田祭無為に事をはんぬと。兼日の風聞、三井寺訴訟の間違乱すべしと。然れども寺
  法師穏便を存じ妨げを成さずと。凡そ寺事大事に及ぶべし。一條入道殿下・相国禅門
  の所為なり。これに依って公家強ち御沙汰無し。彼の両所の奇謀、すでに以て露顕す
  るの後、沙汰せられざるか。件の両人内々種々の議有り。寺門一切承引せず。関東知
  らざるの間、不請の気有り。これに依って大事定めて出来するかの由、世以てこれを
  存ずるか。

4月27日 己卯 天陰雨降らず [平戸記]
  (前略)次いで成功の程の事を議定せらる。人々申す旨相分かる。然れども予申して
  云く、靱負尉爭か万疋に劣るや。而るに前の内府頻りに減気有り。この事関東に仰せ
  合わされ、落居せらるべしと群議をはんぬ。
 

5月9日 [北條九代記]
  前の武州所労に依って出家す。法名観阿房上聖と号す。信濃法印道禅御戒師たり。

5月11日 [北條九代記]
  朝時出家。

5月13日 甲午 晴 [平戸記]
  鶏鳴の間下人来たり告げて云く、下辺物騒、武士騒動すと。子細を尋ね問うの処、関
  東前の武州泰時、去る月二十七日より所労有り。減に依って今月五日沐浴す。而るに
  六日より増気し出家の暇を申す。将軍これを許さると。この子細去る夜子の刻ばかり
  飛脚到来す。その後騒動す。この暁飛脚重ねて到来す。暇を申すと雖も病い頗る減を
  得ると。然れども相模の守重時馳せ下るべしと。仍って出立の上下物騒すてえり。
  (略)陣頭に於いて堀川大納言に相逢う(只今退出)。関東の事を語る。大略聞く如
  きなり。但し重時下向の事抑留せらるると。(略)今夕重時遂に関東に下向しをはん
  ぬと。禁裏の仰せに拘わらずか。時盛猶下向すべきの由風聞す。不審の事なり。京中
  守護の者有るべからざるか如何。

5月14日 乙未 日夜降雨 [平戸記]
  伝聞、両国司夜前子の刻出京す。遂に以て下向しをはんぬ。
[百錬抄]
  天王寺別当辞し申せらると。園城寺欝陶の事、関東甘心せず。仍って暫く寺務を寺家
  に付けらると。

5月16日 丁酉 晴 [平戸記]
  伝聞、両国司下向の途中に於いて使者また到来す。去る九日泰時朝臣遂に出家すと。
  その後無為すと。然れども更に猶下向しをはんぬと。彼の使者上洛し、夜前一條殿に
  参り、子細を申すの由風聞すと雖も、僻事と。

5月17日 戊戌 [平戸記]
  殿下に参る。四條大納言・吉田中納言・大蔵卿・新宰相等参会す。彼是云く、泰時朝
  臣出家の時、彼の従類五十人ばかり同じく出家す。翌十日夜に入り遠江の守朝時(泰
  時朝臣舎弟)また出家すと。兄弟日来疎遠と雖も、而るに忽ちこの事有り。子細尤も
  不審、世以て驚く。旁々これ等の子細、将軍より未だ申されずと。ただ飛脚途中に行
  き逢い、彼の使い入京しその説有り。如何。

5月18日 己亥 朝間甚雨 [平戸記]
  伝聞、泰時朝臣入道の間の事、将軍より未だ一條殿に申されずと。仍って事々不審と。

5月20日 辛丑 微雨 [平戸記]
  殿下より召し有り。然に雑熱所労の事に依って、今日ばかりは相誡むべきの由、申せ
  しめをはんぬ。而るに去る夜夜半物騒の事有りと。これ関東合戦の企て有り。事すで
  に発覚するの由、その聞こえ有り。これに依って禁裏の辺物騒の由、その告げ有り。
  仍って殿下に馳参す。後聞、この事指せる正説無しと。尤も不審の事なり。

5月22日 癸卯 朝より降雨 [平戸記]
  関東の事正説未だ聞かず。

5月26日 丁未 終日降雨 [平戸記]
  関東の事等今に正説無し如何。縁に触れ飛脚有りと雖も、将軍より未だ左右を申され
  ずと。彼の泰時入道の安否また聞かず。尤も不審の事なり。今夕将軍の御使一條殿に
  参る。彼の所労の事一切申さるるの旨無しと。後聞、前の兵庫の頭定員私状を進して
  云く、彼の所労猶不快の由と。また将軍御所守護の者康綱有りと。各々甲冑を帯びる
  の由、彼の使者人に語ると。この儀御用心の至りか。不審々々。

5月27日 戊申 朝間甚雨 [平戸記]
  殿下に参る。東使参ると雖も、件の安否一切これを申されず。ただ他事を申さると。
  頗る不審の事かの由、仰せらるる所なり。

5月28日 己酉 [平戸記]
  大蔵卿入来閑談時を移す。語る次いでに、今朝或る人に謁す。その説に云く、入道殿
  より遣わさるる所の御使、伊勢前司行範途中より使いを進して云く、関東下知を加え、
  皆関々を守護するの間通り得ず。三ヶ日問答すと雖も、猶達し得ず。これをして如何。
  仰せに随うべしと。この事太だ不審なり。また将軍御所守護の事実説と。

5月30日 辛亥 [平戸記]
  東使者夕一條殿に参ると。泰時法師また赤痢を煩う。依って医師(基成朝臣息氏成と)
  を望み申せしむと。然れども最密事、彼の所労と云うは本病なり。仍って医師を望み
  申すと雖も、人実否を存ずべきに非ず。実は将軍病を煩わしめ給うと。外聞を憚りそ
  の由を申されずと。ただ実事本病に於いて泰時法師の所望の由を称すか。密談太だ怖
  畏有るべきの躰なり。この事内裏守護人實量密々案内を申せしむと。
 

6月4日 乙卯 朝間甚雨 [平戸記]
  将軍の御使去る夜一條殿に参着す。東辺無為の由談る所なり(後聞、この説作り事と)。

6月15日 [北條九代記]
  入道前の武蔵の守正四位下平朝臣泰時卒す(六十)。新善光寺の智導上人知識として
  念仏を勧め奉る。

6月19日 庚午 [百錬抄]
  深更に及び、関東の飛脚上洛す。泰時朝臣去る十五日事切りをはんぬと。遺跡に於い
  ては、嫡孫左近大夫将監経時相違無しと。天下三十日穢なり。

6月20日 辛未 晴 [平戸記]
  丑の刻ばかり、雑色男走り来たり告げて云く、今夜子の刻ばかり、東脚(下條兵衛の
  尉を号す)六波羅に到着すと。前の武州泰時入道去る十五日夜すでに命を殞とすと。
  彼の辺騒動すてえり。その後旁々相尋ね、事すでに一定と。夜曙の後殿下に馳参す。
  即ち出御、仰せられて云く、去る十日殊に減気食事を勧む。十一日よりまた更発し、
  十二日また発る。十五日未の刻より増気し、前後不覚、温気火の如く、人以てその傍
  らに寄せ付けず。亥の刻辛苦悩乱、その侭絶えをはんぬると。定員この由を申すと。
  将軍御札南都に進しをはんぬるの由、行範この夜半ばかり参り申す所なり。顕徳院の
  御霊顕現し、説うべからざる事等有りと。恐るべきの由仰せらる。

6月26日 丁丑 晴 [平戸記]
  今日、殿下御物語に云く、顕徳院謚号改めらるべし。後鳥羽を号し奉るべしと。この
  事前の内府申し行うか。この事を案ずるに、我が朝例無きか。漢朝に至りては、一両
  度相存ずるの由、大府卿これを申す。また御改名の儀太だその心を得ず。何故と。冥
  慮に叶わざればまた如何。

6月27日 戊寅 晴 [平戸記]
  炎旱旬を渉る。御祈りの為水天供七檀を行わるべきの由、沙汰有りと。神泉先ず掃除
  と。

6月28日 己卯 晴 [平戸記]
  関東の辺の事、すでに風聞の説多し。尤も不審々々。
 

7月4日 [北條九代記]
  将軍の若君誕生す。御母は御台所、中納言家行卿女。

7月10日 庚寅 [百錬抄]
  相模の守重時入洛す。本の如く洛中守護たるべきなり。

7月13日 癸巳 [百錬抄]
  今日申の刻、高野伝法院並びに僧房等奥院悪徒の為焼き払わると。仍って武士等馳せ
  向かう。これ去年七月伝法院法華三昧の間、奥院悪党の為道場を破損せらる。件の下
  手三人或いは配所に遣わし、或いは獄舎に禁しむ。去る正月奥院軍兵を遣わし大塔に
  乱入し、供僧百四十口の内、伝法院衆二十口自由に名帳を除かしめをはんぬ。この事
  に依って両方城郭を構う。官使を遣わし制止せらると雖も、還ってこの災に及ぶ。法
  滅の期か。この為如何。
 

8月9日 己未 [百錬抄]
  女御従三位桔子を以て中宮と為す。内弁源大納言(具實)本宮に於いて御遊有りと。

8月13日 [百錬抄]
  立后以後初めて御書を中宮に献ず。勅使右中将雅家朝臣勤仕すと。中宮氏寺参賀。

8月19日 己巳 [百錬抄]
  今日、中宮立后以後初めて御入内有り。公卿万里小路大納言已下八人供奉す。権大進
  高経奉行す。蔵人左衛門権の佐経俊これを申し沙汰す。
 

9月12日 [増鏡]
  佐渡院(順徳)かくれさせ給ひぬ。さしも、とりたてたる御悩などは無くて、失せさ
  せ給ふ。あはれなる御事どもなり。四十六にぞならせ給ひける。

9月29日 戊申 天晴 [平戸記]
  念仏今日結願すべし。聴聞の輩いよいよ以て来増す。すでにその所無きが如し。(中
  略)その中相模の守重時の愛妻女事の縁有り入来す。今暁出立す。夜深の間、暫くま
  た一寝するの処、希異の夢有りと。今朝来臨の後これを語る(一言不浄の詞の由起請
  有り)。仏陀すでに応護有り。歓喜身に余る者なり。
 

10月6日 乙卯 晴 [平戸記]
  早旦或る者来たり告げて云く、佐渡院去る月十二日崩御しをはんぬ。去る夜飛脚到来
  す。今驚きながら脩明門院御辺並びに六條宮女房に案内す。事展転の説なり。彼の御
  使未だ参らずと。仍って不審有りと。

10月7日 丙辰 [百錬抄]
  佐渡院去る月十二日彼の国に於いて崩御の由披露すと。御年四十六。大礼の間、人々
  不審を成す。然りと雖も遠所の御事、先例公家行わるる事無しの由、沙汰し切ると。

10月9日 戊午 晴 [平戸記]
  宮内大輔入道蓮家示し送りて云く、彼の御使昨日一定到来すと。但し委事女房注進せ
  られず。遂て申さるべしと。十二日事切れしめ給う。十三日御喪事一定と。愛慟の至
  り、喩えに取る物無し。年来再観を偸み待つ。今すでにこの事を聞き、天を仰ぎ地に
  伏す。迷惑の外他に無し。
 

11月1日 己卯 晴 [平戸記]
  今日佐渡院御中陰すでに四十九日に満つなり。遠所に於いて御仏事無し。京都また同
  前。御骨入洛の後行わるべしと。これ御遺誡なり。然れどもその事を待つべきに非ず。
  懇志の余り、去る月二十二日(吉日を用ゆ)より始終万々遍の念仏、未だ遍数に満た
  ずと雖も、今日且つは結願すべし。

11月9日 丁亥 晴 [平戸記]
  今夜大甞會の事に依って、太政官廰に行幸すと。

11月13日 辛卯 晴 [兵戸記]
  今夜大甞會祭なり。行幸立殿を廻るの間その路を迷わる。前行の侍従宰相資季行き迷
  うと。希代の事なり。件の路、官使部松明を取り所々に立て、教導として供奉せしむ
  こと定例なり。今度沙汰無きか。上下故実を知らざるの至りなり。凡そ出入の門皆違
  例と。成人幼主の時彼の門相違なり。人以て知らざるの由と。

11月22日 庚子 [百錬抄]
  今日、兵衛内侍(故蔵人木工の頭棟基女)皇子(宗尊)を誕生す。先朝の女房なり。
 

12月12日 庚申 朝晴 [平戸記]
  近日天下上下の諸人咳病を煩う。時行を疑う所の躰なり。多く以て損命す。すでに天
  災を謂うべきか。

12月27日 乙亥 [百錬抄]
  猪隈禅閤(家實)薨去す(年六十四)。