1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

2月2日 己酉 天霽
  辰の刻故前の左京兆崇敬の大倉薬師堂焼亡す。失火と。本仏これを取り出し奉ると。
 

2月13日 庚申
  天変の御祈り等を始行せらると。
 

2月15日 壬戌 晴
  申の刻以後若君御違例。
 

2月16日 癸亥
  御沙汰の間、詮勾勘録の事、大事は二箇月、中事は一箇月、小事は二十日、この日数
  勘じ進せしむべきの由相触るべきの旨、問注所執事加賀民部大夫に仰せ含めらると。
 

2月23日 庚午 霽
  将軍家の御願に依って、桑絲・呉綿等を二所に奉らる。これ神主・社僧等に施されん
  が為なり。伊豆山の御使は左衛門の尉忠行、箱根の御使は駿河五郎左衛門の尉なり。
  摂津の前司これを奉行すと。申の刻御台所鶴岡に御参り(今度初度なり)。御車なり。
  女房出車一両、供奉人三十余輩(布衣)。
 

2月25日 壬申
  諸御家人任官の間の事、日来内々沙汰を経らる。今日評議に於いて治定の篇有り。所
  謂、式部の丞・所司の助の事、侍の所望に於いては一向停止すべしと。彼の両職成功
  の事、先度靭負の尉に准え一万疋の由定めらるると雖も、自今以後然るべからずと。
  二万疋たるべきか。
 

2月26日 癸酉
  諸人訴論の事、成敗の懈緩を無くさんが為、今日左親衛の御亭に於いてその沙汰有り。
  且つはその日々を点ぜられ、且つは人数を結ばらる。
   定
    訴論の沙汰日結番の事
   一番(三日・九日・十三日・十七日・二十三日)
    摂津の前司 若狭の前司 下野の前司 対馬の前司 大田民部大夫
   二番(四日・八日・二十四日・二十八日)
    佐渡の前司 太宰の少貳 出羽の前司 清右衛門の尉
   三番(六日・十四日・十九日・二十六日・二十九日)
    信濃民部大夫入道 甲斐の前司 秋田城の介 加賀民部大夫
   右の次第を守り、懈怠無く参勤せらるべきの状、件の如し
     仁治四年二月日

[百錬抄]
  改元の事有り。代始に依ってなり。仁治四年を改め寛元元年と為す。
 

2月27日 甲戌 天霽
  戌の刻若君御不例。猶御減無きの間御祈りを始めらる。摂津の前司奉行たり。また御
  占いを行わる。
 

2月29日 丙子 霽
  今日の評議、御恩の事、闕所を定めざるの以前、その所を差し望み申すの輩等の事に
  於いては、御沙汰に能わずと。