1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

8月15日 戊子
  鶴岡八幡宮の放生会なり。将軍家御出で、御車例の如し。越後の守光時御劔、梶原左
  衛門の尉景俊御調度を懸く。信濃大夫判官行綱・河津大夫判官尚景(各々家子を具す)
  等供奉す。
 

8月16日 己丑
  将軍家の御参宮昨日の如し。今年より三箇年、馬場の儀、御立願に依って結構有るべ
  しと。仍って十列は、武藤左衛門の尉・加藤左衛門の尉・加地七郎左衛門の尉・紀伊
  次郎左衛門の尉・長掃部左衛門の尉以下これに騎す。信濃大夫判官・小笠原の六郎・
  駿河五郎左衛門の尉・上野の十郎・加地八郎左衛門の尉以下流鏑馬の射手たり。同的
  立は、能登の前司・但馬の前司・隠岐前の大蔵少輔・上野大蔵権の少輔・大隅の前司
  ・上総権の介以下これを立つ。競馬は、雅楽左衛門の尉・左府生兼見・本間左衛門の
  尉・中村の三郎以下これを召し決さらるるなりと。
 

8月24日 丁酉 天晴
  御所の廊に於いて千度御祓いを行わる。泰貞・晴茂・泰守・晴長・国継・晴憲・晴貞
  ・以平・泰房・泰兼(以上衣冠)等これを勤む。この人数を催せらるるの処、宣賢進
  奉しながら、刻に臨み泰守の座下に候すべからずと称し、男資宣を進すの間、出仕を
  止めらる。泰兼を召しその替わりと為すと。陪膳は相模右近大夫将監時定・遠江式部
  大夫時章(已上布衣)なり。摂津の前司師員朝臣これを奉行す。
 

8月26日 己亥
  三嶋の御神事なり。放生会流鏑馬の射手以下の役人を以て遂行せらるる所なり。殊な
  る御宿願たりと。今日武州(経時)、御書を問注所に遣わさる。これ武州禅門の時成
  敗有る事、訴人懸物の押書を進せざれば、縦え問答を遂ぐべきの由御書下有りと雖も、
  召し決せらるべからずと。執事加賀民部大夫請文を献ると。夜に入り将軍家前の右馬
  権の頭の亭に移らしめ御う。これ小御所並びに御持仏堂以下壊し立てらるべきの間、
  四十五日の御方忌に移られんが為なりと。