1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

9月5日 戊申 天晴
  将軍家佐渡の前司基綱の大倉の家に入御す。武州並びに北條左近大夫将監・前の右馬
  権の頭・遠江の守・越後の守・丹後の前司・備前の守・陸奥掃部の助・遠江式部大夫
  ・相模式部大夫・若狭の前司・秋田城の介・能登の前司・下野の前司・壱岐の前司・
  上総権の介以下供奉す。隠岐次郎左衛門の尉御調度を懸く。彼の所に於いて和歌・管
  弦等の御会。能登の前司・壱岐の前司等琵琶を弾く。二條中将・壬生侍従・相模三郎
  入道・河内式部大夫等参会す。この所素より山陰に属き、閑寂幽棲なり。しかのみな
  らず紅葉・緑松枝を交えるの躰、黄菊・青苔露を帯びるの粧、感荷一に非ず。また薄
  暮に臨み、舞女両三輩参入し、廻雪の袖を翻す。人々猿楽に及ぶ。鶏鳴以後還御す。
  基綱御贈物を奉ると。
 

9月19日 壬戌 霽
  亥の刻若君疱瘡を煩い御うの間、泰貞朝臣里亭に於いて如法泰山府君祭を勤む。これ
  武州の御沙汰なり。信濃大夫判官行綱御使たりと。
 

9月20日 癸亥
  戌の刻散位従五位下清原眞人季氏死去す(年六十五)。
 

9月25日 戊辰
  諸人訴論の事評定有り。事書見参に入れ施行すべきの由仰せ下さるるの処、御成敗の
  遅々、尤も以て不便なり。自今以後奉行人に付け、事書に任せ、早々御下知を成すべ
  し。また御下知と事書と、問注所に於いて勘合せしむべし。事書相違無くば下すべき
  の由、加賀民部大夫に仰せらる。
 

9月27日 庚午
  正六位上越後掃部の助平朝臣時景卒す(年三十八)。