1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

11月1日 癸卯
  佐々木壱岐の前司泰綱相伝の近江の国散在の所領、これを召し放たれ人々に賜う。こ
  れ佐々木太郎左衛門の尉重綱法師訴え申して云く、泰綱守護の権威を輝かし、潛かに
  当国内散在の地等を掠領す。また式目の旨に背き、犯人跡の闕所に引き籠もると。仍
  ってこの御沙汰に及ぶの間、今日泰綱款状を捧げ、父祖並びに兄弟等の勲功を載す。
  就中信綱承久三年の軍忠等を優ぜられ、また嘉禎高野山に参り籠居の比と云い、仁治
  遁世の時と云い、子孫の間の事不審有るべからず。不便思し食さるべきの由御教書を
  賜う。これに依っていよいよ余執を攘い往生せしめをはんぬ。而るに彼の領は、信綱
  入道承久の比、或いは由緒の地を以て、本主の譲状を得て、各別の御下文を申し賜い
  これを知行す。或いは本所一円の地を以て、彼の和與状に就いて領掌せしむ。凡そ式
  目は貞永元年なり。それ以後罪跡と号し、事の由を申さず領知せしむに於いては、尤
  も過怠たるべし。この散在領は、多くこれ承久の比の事なり。式條以前なり。重綱法
  師ただ泰綱に阿党を為す。不忠不孝を忘れ、死骸に敵対せしめ告言を到す。罪科に当
  てらるべきの由と。
 

11月2日 甲辰 霽
  御持仏堂・小御所並びに御室戸大僧正坊壇所等立柱・上棟。
 

11月10日 壬子
  在京御家人等の大番役勤仕免否の事その沙汰有り。縦え西国の所領に就いて、その所
  に下向せしめ、時々指し出るに於いては準ずべからず。在京奉公を退かず、六波羅に
  祇候を退かざれば、尤も奉公の為、その役を免さるべしと。また大谷中務入道六波羅
  に候せず所領に下向す。早く番役に勤仕せしむべきの由、今日仰せ下さると。
 

11月18日 庚申
  天変等の事に依って、将軍家の御祈りとして天地災変祭を行わる。泰貞朝臣これを奉
  仕す。陸奥掃部の助の沙汰なり。水谷左衛門大夫御使たり。
 

11月26日 戊辰
  摂津の国渡部の海賊人罪名の事、今日評定に及ぶ。太田民部大夫これを奉行す。彼の
  事に依って、刑部の丞信綱法師所帯の下司職、領家の為収公すと。