1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

12月2日 甲戌 天霽、風静まる
  今日未の刻将軍家小御所の御移徙なり。武州経営等有り。即ち参らる。また評定衆等
  参会すと。
 

12月10日 壬午 天晴
  丑の刻新造の壇所(御所巽角)大僧正坊移徙を遂げらる。佐渡の前司・能登の前司・
  但馬の前司・出羽の前司等参入す。毛利蔵人大夫入道盃酒以下の事を儲くと。
 

12月22日 甲午
  奴婢雑人の男女子息の事その沙汰有り。十歳内は父母に付けらるべし。十歳以後は年
  記に就いて御成敗有るべし。京都の族に於いては御口入に及ばずと。
 

12月25日 丁酉 天晴
  信濃法印道禅、南御堂の廊に於いて結縁の灌頂を行わる。将軍並びに御台所・同御母
  儀等御出で。相催せらるに依って諸人群参すと。
 

12月29日 辛丑 天霽
  午の一点白虹日を貫く。将軍家御覧ぜらる。諸人またこれを見る。日脚半天に昇り、
  未申の刻この変をはんぬ。司天等を召し直に尋ね聞こし食さる。上座に就いて、先ず
  泰貞申して云く、暈虹先々相論有り。今度に至りては交わる所無し。但し□雲有って
  日を貫くの條に於いては、眼精に及ばずと。晴賢日を貫くの由を申す。国継・晴茂・
  廣資等一同白虹の旨を申す。武州参り給う。その後御所の南庭に於いて七座の泰山府
  君祭を行わる。