1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

3月1日 辛丑
  将軍家鎌倉中の諸堂に巡礼す。また桜花を歴覧し給う。これ変異の事に依って思し食
  す所有るが故なり。
 

3月2日 壬寅 天晴 [平戸記]
  早旦筑後の前司孝行来たり云く、父光行法師、去る二月十七日関東に於いて入滅すと。
  猶子・庶子多く彼の国に在り。また自身・女子等在京す。仏事を修すべきの間の事示
  し合うなり。喪家両所に儲くべからず。仍って京都に於いてこの儀有るべからざるか。
  在京の子息面々善事を営むの條は、憚り有るべからざるか。予祖母御事の時此の如く
  の故、その由を示しをはんぬ。
 

3月6日 丙午 晴 [平戸記]
  今夜猶除目を行わる。
   正五位下平泰村(臨時)、従五位上平時頼
 

3月12日 壬子
  戌の刻若君御前また御不例。但馬の前司定員の奉行として、御祈り等の沙汰有りと。
 

3月13日 癸丑
  若君の御方護身等有るの上、御祭を行わる。泰山府君(晴賢)・土公(泰貞)・鬼気
  (国継)。
 

3月14日 甲寅
  若君の御祈りの事、武州殊に申し行わしめ給う。今日隆弁法印召しに依って御所に参
  り、不動呪を以て加持し奉る。この外重ねて御祭有り。泰山府君(晴賢)・鬼気(文
  元)・呪咀(国継)。
 

3月15日 乙卯
  若君御少減、聊か御膳を聞こし食す。然れども猶御祈祷の為、御所に於いて不動護摩
  を修せらる。大納言法印隆弁これを奉仕す。
 

3月17日 丁巳
  申の刻若君の御不例更発するに依って、復び御祭を行わる。七座の招魂祭は晴賢・文
  元・晴長・宣賢・国継・廣資。霊気祭は泰貞等これを奉仕す。但馬の前司定員奉行た
  り。
 

3月18日 戊午
  御所に於いて隆弁法印不動法を修す。これまた若君の御祈りなり。この上綱当時有験
  無双の間、頻りにこれを召し付けらると。
 

3月24日 甲子
  御所の御修法等結願すと。
 

3月27日 丁卯
  若君の御不例平愈す。これに依って今日大納言法印隆弁二棟の御所に於いて禄(五衣
  一領)を賜う。
 

3月28日 戊辰
  武州訴人等に対面す。数輩群集す。先々訴訟を棄損せらるるに依って、庭中言上の族
  なり。再往その理非を聞き、少々摂津の前司・佐渡の前司・信濃民部大夫入道等の方
  に与奪し、評定を勘じ申すべしと。当座より即ち使者を訴人に相副えこれを送り遣わ
  さる。平左衛門四郎・万年馬の允・安東左衛門五郎等御使たりと。
 

3月30日 庚午
  若君御前の御不例減気の後、今日御沐浴の儀有り。御湯加持常住院大僧正坊・医師以
  長参入す。事終わり鞠の御壺に於いて、以長御劔・御馬(鞍を置く)を賜う。この間
  武州・北條左親衛・前の右馬権の頭・足利丹後の前司等候せらる。今日若君息災の御
  祈り、大納言法印隆弁をして筥根山に参らしめ給う。先ず精進屋に入り、来月三日進
  発すべきの由厳旨を蒙る。三七箇日参籠すべしと。