1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

4月3日 癸酉
  若君御前元服の事その沙汰有り。先ず御祈りの為、春日社壇に於いて唯識講を始行せ
  らるべきの由仰せ遣わさる。布施物被物十重・裹物十・供米十石は、六波羅の相州別
  進を為すべしと。この吉事来二十一日を点ぜらる。また吉書始めを行わるべきに依っ
  て、これを存知せしめ、後日を以て同じく行わしめられんが為、今日六波羅に仰せら
  ると。
 

4月10日 庚辰 天晴
  富士姫君駿河の国より御上洛と。これ有棲河黄門の御猶子たるべきに依ってなり。
 

4月21日 辛卯 天霽
  今日将軍家の若君(六歳、御名字頼嗣、御母中納言親能卿娘大宮の局)御元服なり。
  嘉禄の例を用いらるるに依って、前の佐渡の守基綱これを奉行す。申の刻その儀有り。
  織部の正晴賢朝臣(衣冠)日時勘文(覧筥に入る)を持参す。前の美濃の守親實朝臣
  西侍(端座)に於いてこれを取る。廊根の妻戸を経て寝殿西面の妻戸に入り、御座の
  前(板敷)に置く。将軍家これを覧て返さる。筥に入れ親實これを給わり、侍所に持
  ち来たり、勘文を懐中す。若君御装束(有紋の御直衣、二倍織物、御指貫、白単、御
  髪を結わしめ給わず。親實朝臣これに候す。定員御前の装束を為す)を着す。武州(白
  襖の狩衣、薄色生の指貫、帷下袴を着す)参り給う。二條中将教定朝臣(布衣、上括
  り、嘉禄の例に任せ扶持し奉るべしと。然れども女房これに役せられ、指せる所役無
  きか)・前の右京権大夫資親朝臣等同じくこの所に候す。御装束訖わり寝殿西面に渡
  御す(女房扶持し奉る)。武州を召す。武州参進し、理髪加冠(御烏帽子を引き入る)
  に勤仕せらる。次いで御前物(土高杯、両御方)を進す。
   陪膳 左近大夫将監時頼(已下所役、両御方これを相兼ねらる)
   役送 能登右近大夫仲時・毛利兵衛大夫廣光、両人共陪膳の位次上臈なり。自ら嘉
      禄の例に叶うや。
  次いで冠者殿帰入せしめ給う。
  次いで人々庭上の座に着す。
  次いで御簾を上ぐ。大夫将監時頼これを役し給う。
  次いで冠者殿御装束(無紋の御直衣、指貫)を改め換え参り給う。
  次いで御引出物を献る。
   御劔 前の丹後の守泰氏(白襖の狩衣、薄色の奴袴、下袴を着す)西侍の簀子並び
      に廊を経て、妻戸に入り御座の傍ら(右方)に置く。
   一の御馬(鞍を置く)備前の守時長(半靴)  前の壱岐の守泰綱(野劔・毛沓)
   二の御馬(同)   駿河式部大夫家村(同) 五郎左衛門の尉資村
   三の御馬(同)   遠江次郎左衛門の尉光盛(同)五郎左衛門の尉盛時
  次いで入御す。
  次いで冠者殿(将軍扶持し奉らる)二棟に出御す(嘉禄の例此の如し)。
  次いで進物
   御劔 前の右馬権の頭政村(薄青白裏の狩衣、薄色の指貫)簀子を経て、第三間に
      入りこれを置く。
   御弓征箭(羽切生) 遠江の守朝直(白襖の狩衣、薄色の指貫)左手は矢を持ち、
      右は弓を取る。御座の傍らの柱に倚せ立つ。
   御刀(鞘巻、下緒在り) 相模右近大夫将監時定、刃を以て内にしてこれを捧ぐ。
   御鎧(紫絲威、赤地錦の御直垂を副え、甲櫃の蓋に盛る)
      越後の守光時・遠江式部大夫時章、御前の長押下に置く(冑の前を以て御前
      に向く)。
   羽(箱に納む) 前の若狭の守泰村
   砂金      秋田城の介義景
     已上の両種長押上に置く。
  次いで武州召しに依って廊に参進す。御劔(袋に入る。前の隼人の正光重、大夫将監
  時頼に伝う。親衛廊に於いてこれを奉らる)を賜い、庭上に下り立ち一拝し給う。次
  いで入御す。
  今日少人、数度出御す。その儀各々刻を移すの処、敢えて御窮屈無く、偏に成人の如
  し。貴賤皆感嘆し奉る所なり。抑も御任官の事、嘉禄の例に任せ後日たるべし。また
  将軍宣旨を蒙らしめ給うべしと。これ天変に依って、御譲与の事俄に思し食し立つの
  上、五六の両月御慎みに当たるの間、今月この儀を遂げらるるなり。御名字は兼日風
  聞す。兼頼なり(京都より撰び進せらる両三のその一)。而るに今用いらるる所は将
  軍家の御計なり。次いで武州評定衆を相率し政所に参られ、吉書始めの儀有り。左衛
  門の尉満定執筆を為す。事終わり武州御所に持参す。寝殿南面に於いて披覧せらる。
  御前に於いて摂津の前司師員朝臣これを読み申す。評定衆着到し同じく披露すと。そ
  の後政所に還り献盃有り。信濃民部大夫行泰・同次郎行頼・大夫判官行綱・四郎左衛
  門の尉行忠等所役に従うと。
  着座の次第
  一方
   前の右馬権の頭  若狭の前司  秋田城の介  下野の前司  能登の前司
   上総権の介    備前の守   大田民部大夫 外記大夫
  一方
   遠江の守     摂津の前司  甲斐の前司  佐渡の前司  出羽の前司
   前の太宰の少貳  清左衛門の尉
  次いで御元服無為の事と云い、新冠御任官叙位の事と云い、京都に申せらるべきの由
  議定有り。御消息等を整えらる。征夷大将軍を冠者殿に譲り奉らるるの由と。平新左
  衛門の尉盛時その準脚に応ず。すでに黄昏に及ぶと雖も、吉日の上、御急事たるに依
  って進発す。行程六箇日に定めらると。
 

4月25日 乙未 晴 [平戸記]
  今年炎旱の疑い有り。所々の地皆乾くと。また近日病患充満し、或いは損命す。
 

4月26日 丙申 天晴
  今夜四角四堺の鬼気祭を行わる。これ近日咳病温気流布し、貴賤上下免がるること無
  きの間、将軍家並びに公達以下の御祈祷なり。両若君この御患い有りと。乙若君今に
  御平減無しと。
 

4月27日 丁酉 晴 [平戸記]
  関東の飛脚到来す。これ将軍御息、去る月二十二日首服を加えしめ給う(五歳)。将
  軍譲り申せしめ給うべしと。兼ねて御名字の沙汰有り。その間の事、一日殿下密々語
  らしめ給うなり。而るに今申せらるるの趣、早く補せらるべきの由申せしめ給うと。
  仍って俄に除目有るべきの沙汰出来すと。然れども今日延引す。明日行わるべしと。
 

4月28日 戊戌 晴 [平戸記]
  今日除目を行わると。
   征夷大将軍藤原頼嗣(正二位藤原朝臣譲る)
   右近権少将藤原頼嗣
   従五位上藤原頼嗣(臨時)
  五歳の将軍如何。只今譲補するの條、世目を以て、人々思う所定めて空しからざるか。
  関東武士の案等尤も以て不審々々。

[百錬抄]
  小除目有り。征夷大将軍藤原頼嗣(正二位藤原朝臣譲る)。去る二十一日御元服と。
  即ち右近少将に任じ、従五位上に叙せらる。
 

4月29日 己亥 [平戸記]
  天下の病患逐日日に新し。家毎に人病床に臥せざるは莫し。時の災殃誠に以て遁れ難
  き事か。近年此の如き事無し。恐るべし々々。