1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

5月5日 甲辰
  平新左衛門の尉盛時京都より帰着す。去る月二十八日の宣下状・除書等を持参す。冠
  者殿征夷大将軍の宣旨を蒙る。右近衛少将に任じ、従五位上に叙せしめ給うと。盛時
  この事の御使として、去る月二十二日進発せしめをはんぬ。武州これを相具し、御所
  に参らしめ給う。前の大納言家御対面有り。直に彼の状等を召し置かる。また故に祝
  着の儀有り。盛時召し出され御劔を賜う。但馬の前司定員これを伝う。夜に入り御所
  に於いて和歌御会有り。端午節を賞せしめ給うか。源式部大夫親行・能登の前司光村
  ・伊賀式部大夫入道光西等参候すと。
 

5月6日 [百錬抄]
  主上聊か御不予。近日天下の貴賤、両三日病脳す。一人これに漏れず。世以て内竹房
  と号す。
 

5月11日 庚戌
  将軍の御方に於いて御酒宴有り。大殿(御出)・武州・北條左親衛等座に候せらる。
  舞女(祇光、今出河殿の白拍子、年二十二)妙曲を施す。大蔵権の少輔朝廣・能登の
  前司光村・和泉の前司行方・佐渡五郎左衛門の尉基隆等猿楽を答弁すと。
 

5月15日 甲寅
  御持仏堂に於いて供花有り。前の大納言家自らこれを供せしめ給う。諸人群参すと。
 

5月16日 乙卯 晴 [平戸記]
  諸国炎旱の気有り。就中大和の国に至りては都て東作の業を忘れると。連々雨下るに
  似たりと雖も、地一切潤わず乾きしむと。また近日涼気殊に太だし。上下未だ綿衣を
  離さず。暑天此の如き奇しむべし。病患競い起こること偏にこの故なり。
 

5月18日 丁巳
  酉の刻前の大納言家並びに新将軍御不例。御心神殊に違乱すと。この外二位殿・三位
  殿同じく煩わしめ給う。凡そ近日人毎にこの病事有り。俗これを号し三日病と。仍っ
  て今夜三箇夜の鬼気祭を始行せらる。文元これを勤む。但馬の前司定員これを奉行す。
 

5月20日 己未
  両御方御不例の事に依って、重ねて御祭等を行わる。所謂大殿の御方呪咀(晴賢朝臣)
  ・招魂(宣賢)。将軍の御方鬼気(国継)等なり。
 

5月21日 庚申
  両所御不例の事、今朝聊か御少減気有りと。
 

5月26日 乙丑
  乙若君御前御不例の事、未だ御減に及ばず。仍って午の刻参河の前司教隆の奉行とし
  て陰陽師等を召し、護身有るべきや否やこれを尋ね問わる。護身然るべからず。御猶
  予有るべきの由、晴賢・文元・晴茂・国継・廣資・泰房等一同占い申すの間、暫くそ
  の儀を止めらると。夜に入り彼の御祈りの為、鬼気祭七座並びに四方四角等の祭を行
  わる。郭外に於いてこれを行わると。
   艮方(晴賢)  東方(文元)  巽方(為親)  南方(晴茂)
   坤方(晴長)  西方(国継)  乾方(晴貞)  北方(泰房)
   如法泰山府君祭(廣資)
 

5月29日 戊辰
  若君御前の御祈りの為、十壇の炎魔天供を行わる。
   一壇 大蔵卿僧正    一壇 宮内卿法印
   一壇 大貳法印     一壇 宰相法印縁快
   一壇 三位法印頼兼   一壇 播磨僧都厳懐
   一壇 弁僧都審範    一壇 宮内卿僧都
   一壇 大納言僧都    一壇 三位僧都
  この外鶴岡八幡宮に於いて大般若経を転読せらる。また同上下宮並びに二所・三嶋社
  等、各々神馬一疋これを送り奉らる。摂津の前司師員朝臣・前の太宰の小貳為佐等奉
  行なり。
 

5月30日 己巳
  若君の御祈り等重ねてこれを行わる。廣資代厄祭を奉仕す。これ今年太一定分厄に当
  たらしめ給う。厄御祈りを行わるべきの由、助法印珍譽勘じ申すに依ってなり。