1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

6月1日 庚午
  御台所並びに新将軍の御不例平愈の間、今日御沐浴の儀有り。医師は頼幸と。
 

6月2日 辛未
  炎旱の間祈雨の事、鶴岡の供僧等に仰せらる。出羽の前司これを奉行す。信濃民部大
  夫入道奉行す。政所より供米十石下行す。また御所に於いて七箇日の不断不動御念誦
  を始行す。衆僧二十口・供米各々一石と。政所の沙汰なり。師員朝臣これを奉行す。
 

6月3日 壬申
  天変の御祈り等を行わる。
  前の大納言家御分
   一字金輪(信濃法印)  孔雀経法(二條法印)
   尊星王法(如意寺法印) 天地災変祭(泰貞)
   太白星祭(晴茂)    歳星祭(文元)
  将軍家御分
   北斗護摩(大僧正)   薬師供(民部卿法印)
   天地災変祭(晴賢)
 

6月4日 癸酉
  前の大納言家の御願として、後鳥羽院御追善の奉為、日来法華経百部を摺写せらる。
  この形木即ち彼の宸筆を彫らるる所なり。仍って今日供養を遂げらる。大蔵卿僧正良
  信導師たり。請僧七口。布施取坊門少将清基・水谷左衛門大夫重輔等と。また炎旱旬
  を渉るに依って、祈雨の為十壇の水天供を始行せらると。権僧正良信・良勝、法印賢
  長・承快・頼兼・定親・隆弁、僧都良全・定清・守海。同日前の対馬の守従五位上三
  善朝臣倫重死去す(年五十五)。

[平戸記]
  炎旱すでに下民の憂いに及ぶと。頻りに御祈りの沙汰有りと。
 

6月5日 甲戌 申の刻雷鳴雨降る
  日来炎旱に依って、当に祈雨を修せらるの時、この雨有りと雖も、猶国土を潤すに足
  りずと。猶不足の間水天供延引すと。今日千田判官代入道蓮性と市村の小次郎景家と
  相論の事、一決を遂ぐ。景家蓮性を以て人の勾引を為すの由訴え申すに依ってなり。
  然れどもその実無きの間、讒訴の過料に募り、一所の橋を直すべきの由景家に仰せ付
  けらると。平内左衛門の尉・鎌田三郎入道等これを奉行す。
 

6月8日 丁丑
  御所の御持仏堂(久遠壽量院と号す)に於いて八万四千基の泥塔を供養せらる。曼陀
  羅供の儀なり。大阿闍梨三位法印猷尊、讃衆六口と。
 

6月9日 戊寅 雨降る
  甘雨と謂うべきか。御祈りの僧徒巻数を捧げ、師員朝臣に付すと。水天供延引すと。
 

6月10日 己卯
  肥前の国の御家人久有志良左衛門三郎兼継訴え申す安徳左衛門の尉政尚一族五人任官
  の事、政尚・政家等の所領三分の二召さるべきの趣、前の兵庫の助これを奉行す。
 

6月13日 壬午
  将軍家御元服・御任官の後、吉書始めの儀有り。今日御行始めの儀有り。秋田城の介
  義景の甘縄の家に入御す。前の大納言家御見物の為御車を小町口の西に立てらる。供
  奉人(布衣・上括り)その砌に候す。岡崎僧正道慶同じく車を立てらると。未の刻御
  出で。
  行列
  先ず随兵(三騎相並ぶ)
   一番 佐々木壱岐の前司泰綱 河越掃部の助泰重  常陸修理の亮重継
   二番 大蔵権の少輔朝廣   駿河式部大夫家村  大須賀七郎左衛門の尉重信
   三番 遠江式部大夫時章   上野の前司泰国   陸奥掃部の助實時
  次いで御車
   駿河五郎左衛門の尉  上野五郎兵衛の尉   下総の小太郎
   河越の五郎      壱岐次郎左衛門の尉  氏家の余三
   武田の三郎      相馬次郎兵衛の尉   幸嶋の次郎
   下河邊左衛門三郎   遠江五郎左衛門の尉  上野の十郎
   小野澤の次郎     伊豆六郎左衛門の尉  式部兵衛太郎
   土屋左衛門三郎    廣澤三郎左衛門の尉  小野寺四郎左衛門の尉
   武藤右近将監     波多野の小次郎
    已上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
  次いで御調度懸け
   梶原右衛門の尉景俊
  次いで五位六位(布衣・下括り)
   一番 遠江の守朝直      越後の守光時
   二番 宮内少輔泰氏
   三番 北條左近大夫将監時頼  毛利兵衛大夫廣光
   四番 出羽の前司行義     江石見の前司能行
   五番 隼人の正光重
   六番 彌次郎左衛門の尉親盛  佐原肥前太郎左衛門の尉
   七番 遠江次郎左衛門の尉光盛 信濃四郎左衛門の尉行忠
 

6月15日 甲申
  故前の武州禅室第三年の御仏事なり。
 

6月16日 乙酉 晴 [平戸記]
  炎旱旬を渉る。敢えて雨気無し。御祈り更にその験無きか。偏にこれ政道依違の故な
  り。上下愁歎の外他に無きか。病者逐日増気す。仍ってこの間出仕せざるなり。
 

6月17日 丙戌
  新田の太郎大番に勤仕せしめんが為在京す。これ上野の国役たるが故なり。而るに所
  労と称し俄に出家を遂ぐ。但し事の由を六波羅並びに番頭城の九郎泰盛等に相触れざ
  るの由注進状有るに依って、今日評定の次いでに沙汰を経らる。定め置かるるの旨に
  任せ、所領一所を召し放たるべきの由定めらると。また遠国の雑訴人に於いては、西
  収以前召文の御教書を成さるべからざるの旨法に儲けらると。
 

6月22日 辛卯 晴 [平戸記]
  今夜除目を行わると。
   従四位上平重時、従四位下平政村
 

6月27日 丙申
  有間左衛門の尉朝澄申す肥前の国高木東郷地頭職の事、懸物状を注進す。而るに故武
  州禅室の時沙汰有り。成敗の事指せる故無くこれを改めるに及ばずと。遠江入道これ
  を挙げ申せらるに依って、今日清左衛門の尉の奉行として、臨時の評定を申し行うと
  雖も、棄損せらるる所なり。また問注記を読まれ、日々奉行人遅れる事、自今以後注
  進すべきの由仰せ出さると。
 

6月29日 己亥
  山城の国平河兵衛入道武威に募り朝政に違背する事、仰せ下さるに就いて今日評議す。
  向後の法を定められて云く、非御家人の輩武威に募り、綸旨を下さるると雖も、子細
  を申し沙汰に及ぶべからず。但し刃傷・殺害・狼藉の事に於いては、尤も沙汰有るべ
  しと。また罪科未断の時、跡を所望する事定め置かるるの間、向後は殊に沙汰の限り
  に非ずと。