1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

7月5日 癸卯 天晴
  永福寺並びに両方の脇堂修理の儀有り。今日事始めなり。肥前の前司久良・中民部大
  夫元業等行事たり。件の寺は右大将軍の御時、文治五年殊なる素願に依って建立せら
  るるの後、数十廻の星霜を積むの間、すでに破壊に及ぶと。
 

7月13日 辛亥
  この程久遠壽量院に於いて供花の儀有り。今日大殿並びに将軍家これを供せしめ給う。
  女房数輩巡役としてこれに参勤すと。
 

7月14日 壬子 天晴
  巳の刻地震。
 

7月15日 癸丑
  月蝕正現す。皆虧なり。
 

7月16日 甲寅
  久遠壽量院供花結願なり。大殿・将軍家入御す。岡崎僧正・内大臣法印・大蔵卿法印
  以下参集す。垂髪・僧徒並びに俗人相分かれ延年す。事毎に興を催し、光村・家村等
  芸を施すと。今日評定有り。筑後の国御家人吉井の四郎長廣と同御家人矢部の十郎直
  澄と相論する当国生葉庄内得安名の屋敷・田畠の事、当知行と称し、御下知を掠め給
  い、奸謀するの間、彼の状を召し返し、貞応の御成敗に任せ、本所の成敗たるべきの
  由と。次いで日野の六郎長用と平五郎季長法師(法名妙蓮)と相論する伯耆の国日野
  新印郷・同下村得分物の事、六月二十日の御教書を掠め給うの條、罪科に遁れ難きの
  由その沙汰有り。長用鎌倉の出仕を止めらるる所なり。両條共対馬の前司奉行たりと。

[平戸記]
  今朝或る人注し送りて云く、関東の脚力一昨夜々半六波羅に到来す。朝時法師(遠江
  入道と号す。故泰時朝臣舎弟、相模守重時舎兄)痢病を煩い、危急に及ぶの由告げ来
  たる。仍って重時息男明暁下向たるべしと。
 

7月20日 戊午
  別府左近将監成政申す相模の国成松名の事、懸物を召しこれを糺明せらるべしと。江
  新民部の丞これを奉行す。この事、大殿より三浦式部大夫家村を以て御使と為し、別
  して武州に仰せらると。今日落合蔵人泰宗並びに市河女子藤原氏等(見西旧妻)、一
  七箇日荏柄社壇に参籠し、起請を書き進すべきの由、対馬の前司・河匂平右衛門の尉
  等の奉行としてこれを仰せ付けらる。この上、平右近入道寂阿・鎌田三郎入道西佛等
  御使として、検見を加うべきの由と。これ市河掃部の助高光法師(法名見西)藤原氏
  を訴え申して云く、泰宗に密通するの由と。氏女論じ申すの間この儀に及ぶと。
 

7月23日 辛酉
  将軍家の御祈りとして薬師法を修せらる。大納言法印隆弁これを奉仕す。
 

7月26日 戊子 [平戸記]
  今日閑院遷幸。清涼代を作り改めらる。仍って移徙の儀を用いらる。その外修造たる
  の儀と雖も、大旨新造の如し。関東の造進なり。

[百錬抄]
  今夜、閑院遷幸。中宮行啓。去る仁治三年四條院御事の後、清涼代を壊棄す。更に以
  て新造す。関東の沙汰として造進せしむ所なり。上卿吉田中納言為経、官方権右中弁
  定頼朝臣、蔵人方勘解由次官顕雅奉行す。