1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

8月3日 辛未
  市河女子藤原氏の事、荏柄社に於いて落合蔵人泰宗に密通せざるの由起請文を書き、
  参籠せしむの間、御使者寂阿・西佛を以て、検見を加えらるるの処、七日七夜その失
  無きの由各々これを申す。仍って市河掃部の助入道見西訴え申す所の信濃の国船山内
  青沼村・伊勢の国光吉名・甲斐の国市河屋敷等は、氏女これを領掌せしむべし。市河
  屋敷に至りては、氏女一期の後見西の子孫に給うべきの由、今日これを定めらる。氏
  女は見西の旧妻なり。相嫁せしむるの始め、もし離別せば件の所々を知行すべきの旨
  契約を成すの間、契状に任せ宛て給うべきの趣、氏女の訴訟に有るの時、泰宗に密通
  せしむの旨見西これを申す。これを閣かれ難きに依って、起請・参籠等の沙汰に及ぶ
  と。また領家の進止たるの所々の事、御家人相伝の所帯等、本所たりと雖も、指せる
  誤ち無く改易するに於いては、先度の御教書の旨に任せ子細を申さるべきの趣、六波
  羅に仰せらると。
 

8月8日 丙子
  去る月二十六日閑院遷幸無為に遂行せらるるの由、京都よりこれを申し送らると。
 

8月9日 丁丑 [百錬抄]
  在京の武士南都に馳せ向かう。彼の寺の衆徒、老少相争い、各々城郭を構う。制止せ
  んが為差し遣わさると。但し老徒党程無く退散すと。
 

8月10日 戊寅 晴 [平戸記]
  南都合戦出来すと。武士を遣わし制止を加えんと欲するの処、今暁すでにその意趣を
  遂げをはんぬと。一日山門合戦す。南北此の如し。説うべからざるなり。
 

8月15日 癸未 天晴
  鶴岡八幡宮の放生会なり。大殿並びに将軍家御参り。先ず御祓い有り。坊門少将清基
  陪膳たり。水谷左衛門大夫重輔役送に候す。舞楽を御覧の後、酉の刻還御す。
  供奉人行列
  先陣の随兵
   河越掃部の助泰重      上総修理の亮政秀
   肥前太郎左衛門の尉胤家   隼人太郎左衛門の尉光義
   上野彌四郎左衛門の尉時光  天野和泉次郎左衛門の尉景氏
   大曽祢兵衛の尉長泰     千葉の七郎太郎師時
   遠江式部大夫時章      相模左近大夫将監時定
  次いで御車
   佐竹の八郎助義       式部兵衛太郎光政
   千葉の次郎泰胤       海上の五郎胤有
   木村の太郎政綱       伊東六郎左衛門の尉祐盛
   武藤右近将監兼頼      渋谷の十郎経重
   立河兵衛の尉基泰      葛山の次郎
   平新左衛門の尉盛時
    已上十一人、直垂・帯劔、御車の左右に候す。
  御後五位六位(布衣・下括り)
   前の右馬権の頭政村朝臣   遠江の守朝直
   北條左近大夫将監時頼    越後の守光時
   宮内少輔泰氏        陸奥掃部の助實時
   甲斐の前司泰秀       若狭の前司泰村
   摂津の前司師員       能登の前司光村
   秋田城の介義景       下野の前司泰綱
   上総権の介秀胤       駿河式部大夫家村
   佐渡の前司基綱       出羽の前司行義
   前の太宰の少貳為佐     毛利兵衛大夫廣光
   大蔵権の少輔朝廣      江石見の前司能行
   佐々木壱岐の前司泰綱    伯耆の前司清親
   大河戸民部大夫俊義     春日部甲斐の前司實景
   薗田淡路の前司俊基     完戸壱岐の前司家周
   但馬の前司定員       隼人の正光重
   加賀民部大夫康持      伊賀の前司時家
   但馬兵衛大夫定範      常陸修理の亮重継
   小山五郎左衛門の尉長村   梶原右衛門の尉景俊
   駿河五郎左衛門の尉資村   壱岐六郎左衛門の尉朝清
   彌次郎左衛門の尉親盛    遠江次郎左衛門の尉光盛
   同六郎兵衛の尉時連     佐渡五郎左衛門の尉基隆
   安積六郎左衛門の尉祐長   肥前太郎左衛門の尉胤家
   伊賀次郎左衛門の尉光泰   大須賀左衛門の尉胤氏
   宇佐美左衛門の尉祐泰    加藤左衛門の尉行景
   出羽四郎左衛門の尉光家   薬師寺新左衛門の尉政氏
   関右衛門の尉政泰      淡路又四郎左衛門の尉宗泰
   相馬五郎左衛門の尉胤村   武藤左衛門の尉景頼
   信濃四郎左衛門の尉行忠   後藤次郎左衛門の尉基親
   一宮善右衛門次郎康有    小野寺四郎左衛門の尉通時
   内藤七郎左衛門の尉盛継   出羽次郎兵衛の尉行有
   佐竹の六郎次郎       上野の三郎国氏
   阿曽沼の小次郎光綱     木内の次郎胤家
  後陣の随兵
   上野の前司泰国       三河の守頼氏
   遠江五郎左衛門の尉盛時   梶原左衛門太郎景綱
   小山下野の四郎長政     宇都宮新左衛門の尉朝基
   城の次郎頼景        土屋の次郎時村
   武田の五郎三郎政綱     小野澤の次郎時仲
   山内籐内通景        廷尉
 

8月16日 甲申 天晴
  鶴岡馬場の儀なり。御宿願有るに依って殊に結構の儀有り。事毎に去年の如し。五位
  ・六位等を以て十列・的立・競馬の役人等に為す。仍って昨日供奉せしむと雖も、今
  日件の役を為すの輩は供奉を止めらると。午の一刻御参宮。御身固め以下の事昨日の
  御出に同じと。
  馬場の儀
    十列
   一番 長掃部左衛門の尉
   二番 飯高彌次郎左衛門の尉
   三番 紀伊次郎左衛門の尉
   四番 大多和新左衛門の尉
   五番 遠江六郎左衛門の尉
   六番 狩野五郎左衛門の尉
   七番 伊勢五郎左衛門の尉
   八番 彌善太右衛門の尉
   九番 肥後四郎兵衛の尉
   十番 土肥次郎兵衛の尉
    流鏑馬
   一番 長江の八郎入道   射手 子息八郎四郎
                的立 能登の前司
   二番 北條左近大夫将監  射手 武田の五郎三郎
                的立 宗左衛門大夫
   三番 佐渡の前司     射手 孫子彌四郎
                的立 摂津左衛門の尉
   四番 上総の介      射手 子息六郎
                的立 彌次郎左衛門の尉
   五番 城の介       射手 子息次郎
                的立 押垂左衛門の尉
   六番 出羽の前司     射手 子息次郎兵衛の尉、
                的立 狩野五郎左衛門の尉
   七番 小山五郎左衛門の尉 射手 上野の十郎
                的立 武藤左衛門の尉
   八番 和泉次郎左衛門の尉 射手 阿曽沼の七郎、
                的立 出羽四郎左衛門の尉
   九番 壱岐六郎左衛門の尉 射手 子息左衛門次郎
                的立 和泉六郎左衛門の尉
   十番 春日部甲斐の守   射手 子息次郎兵衛の尉
                的立 小野寺四郎左衛門の尉
  十一番 近江壱岐の前司   射手 舎弟四郎左衛門の尉
                的立 淡路四郎左衛門の尉
  十二番 伯耆の前司     射手 子息五郎
                的立 能登四郎左衛門の尉
  十三番 信濃民部入道    射手 子息六郎左衛門の尉
                的立 宇佐美與一左衛門の尉
  十四番 上野入道      射手 子息五郎兵衛の尉
                的立 大須賀七郎左衛門の尉
  十五番 右馬権の頭     射手 伊賀四郎左衛門の尉
                的立 薗田淡路の守
  十六番 若狭の前司     射手 舎弟五郎左衛門の尉
                的立 完戸壱岐の前司
    競馬
   一番 左 雅楽左衛門の尉   右 秦次郎府生兼種
   二番 左 富田次郎兵衛の尉  右 渋河の彌次郎
   三番 左 下條の四郎     右 秦三郎清種
   四番 左 河村の小四郎    右 高橋六郎兵衛の尉
   五番 左 浅羽左衛門四郎   右 河村の三郎
 

8月17日 乙酉
  御所南殿に於いて大般若経を転読せらると。
 

8月19日 丁亥
  同じく御所に於いて、今日より五壇法を修せらると。
 

8月22日 庚寅 天霽
  御所の御持仏堂供養なり。導師は竹中法印。七僧法会たるなり。
 

8月24日 壬辰
  伊勢の国阿曽山並びに熊野山の悪党蜂起するの間、今日臨時の評定有り。御沙汰を経
  らる。征伐の為行き向かうべきの由、地頭の御家人等に仰せられをはんぬ。但し行き
  向かうの輩に於いては、感じ思し食さるるの由仰せ遣わさるべし。行き向かわざるの
  族に至りては、交名を注し申さるべきの旨、守護に仰せらると。また今出河殿より申
  せらるる事、摂津の前司師員朝臣・佐渡の前司基綱等の奉行として沙汰有り。検非違
  所職以下の條々なり。守護代兵庫大夫資範非法の間の事、鎮西守護の成敗の事に於い
  ては、右大将軍家の御時より別儀を以て定め置かるるの間、代々の御下文を帯し沙汰
  を致す所なり。自余の国の守護の沙汰に准えらるべからざる事なり。但し細々非法の
  由の事尋ね下され、左右を申さるべきの由群議に及ぶと。
 

8月25日 癸巳 晴 [平戸記]
  今日除目を行わる。
   正五位下藤頼嗣(正二位藤原朝臣閑院修造の賞を譲る)
 

8月29日 丁酉
  大殿明春御上洛有るべき事沙汰有り。治定すと。

[平戸記]
  今日殿下禅門の許に御渡りと。申の刻に及び遂に以て閉眼すと。京中物騒がし。春秋
  今年七十四と。朝の蠢害・世の奸臣なり。春宮外曾祖、関白殿・右大臣殿外祖なり。

[百錬抄]
  入道太政大臣公経公(法名覺勝)薨去す。日来痢病を煩うと。