1244年 (寛元2年 甲辰)
 
 

9月1日 己亥 晴
  京都の使者参着す。去る月二十五日正五位下に叙し給うと。これ前の将軍家閑院修造
  の功と。
 

9月2日 庚子 晴
  戌の刻六波羅の飛脚参着す。去る月二十九日今出河相国禅閤薨御(御年七十四)の由
  これを申す。
 

9月3日 辛丑
  相国の御事に依って、前の大納言家御軽服なり。当将軍は彼の御曾孫たるなり。旁々
  その沙汰有り。二十箇日評議を止むべきの由これを定めらると。
 

9月5日 癸卯
  近江の前司使節として上洛す。今出河殿の御事に依ってなり。
 

9月8日 丙午 陰晴不定 [平戸記]
  近日群盗蜂起す。連夜人家に襲来し、上下遁れ難きと。一夜中将實直朝臣宅に乱入す。
  予旧宅なり。また備中入道信阿の家に入る。結句放火し、一郭皆以て焼失しをはんぬ。
  辻々守護の武士今に於いては全くその詮無きか。またこれ関東の威衰微の故か。
 

9月11日 己酉
  亥の刻小地震。
 

9月13日 辛亥
  明春大納言家御上洛有るべき事、去る月評定に於いてその沙汰有り治定するの間、今
  日諸事の奉行等これを差し定めらる。
 

9月15日 癸丑
  後鳥羽院御追福の摺写法華経、御持仏堂に於いてこれを読み始め奉らる。定親法師こ
  れを奉仕す。
 

9月19日 丁巳 天晴
  大殿明春御上洛の事、但馬の前司定員の奉行として、御沙汰等有り。日次の事、二月
  一日御進発有るべきの由思し食さるるの処、四不出日たるの旨その説有るに依って、
  憚るべきや否や、維範・晴賢等の朝臣に召し問わる。各々定め申して云く、四不出日
  勿論なり。但し賀家はこれを憚からざるか。保憲暦林は丙寅・丙午を擇び入る。禁忌
  有るべからず。二月九日吉日なり。件の日を以て御入洛の期に為すべきか。一日御進
  発、十六日御入洛有らば、厭対日なり。出行これを憚るべし。旁々九日を用いらるべ
  しと。
 

9月20日 戊午
  天地災変祭を行わる。大膳権大夫維範朝臣これを奉仕す。
 

9月28日 己未
  寅の刻地震。今日尼三條の局卒去す。女性たりと雖も営中の古儀を存ず。殊に要須な
  り。人以てこれを惜しまずと云うこと莫し。