1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

8月1日 丁亥
  大田民部大夫康連問注所執事たり。加賀の前司康持の替わりなり。
 

8月12日 戊戌
  相模右近大夫将監京都より帰参す。これ入道大納言家御帰洛の間供奉せらるる所なり。
  この外の人々同じく還向す。去る月二十七日五更(二十八日分)、祇園大路を経て六
  波羅の若松殿に着御す。今月一日供奉人等進発す。而るに能登の前司光村御簾の砌に
  残留し、数刻退出せず、落涙千行す。これ二十余年昵近の御余波を思うが故か。その
  後光村人々に談る。相構えて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲すと。

[葉黄記]
  入道将軍東山殿に参る。密々の儀と。
 

8月15日 辛丑
  鶴岡の放生会なり。将軍家御出の儀有り。
  行列
  先陣の随兵
   足利の次郎兼氏      上野の三郎国氏
   遠江六郎兵衛の尉時連   梶原右衛門太郎景綱
   田中右衛門の尉知継    壱岐次郎右衛門の尉宗氏
   遠江右近大夫将監時兼   城の九郎泰盛
   越後右馬の助時親     相模式部の丞時弘
  次いで諸大夫
  次いで殿上人
  次いで御車
   佐原七郎左衛門の尉    雅楽左衛門の尉
   佐貫次郎兵衛の尉     大胡の五郎
   阿曽沼の小次郎      長井の彌太郎
   那須の次郎        江戸の六郎太郎
   山内中務三郎       波多野の小次郎
    已上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  次いで御後五位六位(布衣・下括り)
   前の右馬権の頭      武蔵の守
   遠江の守         尾張の守
   相模右近大夫将監     備前の守
   上総の介         甲斐の前司
   若狭の前司        上野の前司
   参河の守         秋田城の介
   佐渡の前司        河越掃部の助
   下野の前司        佐々木壱岐の前司
   伊賀の前司        前の太宰の少貳
   大蔵権の少輔       園田淡路の前司
   完戸壱岐の前司      内藤肥後の前司
   伯耆の前司        駿河式部大夫
   越中の守         長門の守
   筑前の前司        伊勢の前司
   内藤豊後の前司      長沼淡路の守
   上総式部大夫       城の次郎
   駿河五郎左衛門の尉    宇都宮下野の七郎
   遠江次郎左衛門の尉    肥前太郎左衛門の尉
   遠江五郎左衛門の尉    関左衛門の尉
   近江四郎左衛門の尉    和泉次郎左衛門の尉
   佐渡五郎左衛門の尉    加治七郎左衛門の尉
   同八郎左衛門の尉     大隅太郎左衛門の尉
   信濃四郎左衛門の尉    豊後十郎左衛門の尉
   春日部次郎兵衛の尉    石戸左衛門の尉
   太宰次郎兵衛の尉     相馬次郎兵衛の尉
   出羽次郎兵衛の尉     筑後左衛門次郎
   鎌田籐内左衛門の尉    飯富源内左衛門の尉
   本間三郎兵衛の尉     木内下野の次郎
  後陣の随兵
   春日部甲斐の前司實景   長江三郎左衛門の尉義景
   大曽祢太郎左衛門の尉長経 壱岐六郎左衛門の尉朝清
   淡路の彌四郎宗員     足立太郎左衛門の尉直光
   伊東六郎左衛門の尉祐盛  佐々木の孫四郎泰信
   河越の五郎重家      千葉の八郎胤時
  参会の廷尉
   薬師寺大夫判官朝村    小山大夫判官長村
 

8月16日 壬寅
  同馬場の儀なり。流鏑馬十六騎・揚馬をはんぬ。而るに射手一人俄に霍乱の気有り障
  りを申す。すでに神事違例に及ぶ。仍って御桟敷に於いて御沙汰有り。雅楽左衛門の
  尉時景を以て御使と為し、この射手を勤むべきの旨、駿河式部大夫家村に仰せらる。
  時景家村の前に蹲踞し仰せを伝う。家村床子より降り、答え申して云く、亡父義村好
  生の時、壮年にして一両度この役に勤仕せしむと雖も、廃忘多年を隔るなり。日来縦
  え習礼有りと雖も、年蘭の後能く敢えて叶うべからざる事なり。況や当日の所作に於
  いてをや。更に身に堪えざるの由と。御使この趣を申すの間、兄若狭の前司泰村に仰
  せ、慥に勤めしむべしと。仍って泰村座を起ち、弟家村の座前に行き向かい、早く仰
  せに応ずべきの旨再往諷詞等を加う。時に只今無射馬を称す。泰村馬は用意の由を答
  う。凡そ泰村此の如き時儀を存じ、射馬(深山路と号す名馬なり)に鞍を置き、兼ね
  て以て流鏑馬舎の近辺に置かしむと。この上は家村遁避に拠を失う。自ら敷皮を取り
  下手の埒に副え、流鏑馬舎に向かう。公私この儀を見て入興す。見物の輩悉く以て目
  を馬場下の方に属け、家村を相待つ。家村布衣の行粧を改め射手の装束を着す。然る
  後件の深山路に駕し、第四番に打ち出る。その躰古堪能に恥じずと。人々美談す。時
  の壮観なり。射訖わり則ちまた布衣を装い、本座に帰着するの間、頻りに御感の御使
  に預かる。当家は他門これを賀せざると云うこと莫しと。
 

8月17日 癸卯
  将軍家俄に御不例、諸人群参すと。

[葉黄記]
  興福寺衆徒の中、寺中徒蜂起す。長者(一條實経)御制止有りと雖も、猶院宣を遣わ
  す。予病中ながら、猶仰せを奉り、これを書き別当弁の許に遣わしをはんぬ。
 

8月20日 丙午
  御不例平癒すと。医師・御持僧・陰陽師等禄物に預かると。
 

8月23日 己酉 晴 [葉黄記]
  南都衆徒の事猶興盛と。
 

8月25日 辛亥 天晴
  寅の刻月軒轅女御星を犯す。

[葉黄記]
  重時朝臣使者(佐治左衛門の尉重家)を送り病事を相訪う。青侍を以て相逢わしめこ
  れを謝す。その次いで彼の使者云く、もし見参に入らば、申すべきの由命を蒙る事有
  りと。仍って予面謁す。密語に云く、返す返す甚だ恐れ有りと雖も、見参に罷り入る
  の條、大切の事有り。近代の武家法子細に及ばず。仍って所労不快と雖も、扶け試む
  べきの由返答しをはんぬ。
 

8月26日 壬子 天晴
  寅の刻月太白を犯す。
 

8月27日 癸丑 晴 [葉黄記]
  病を相扶け輿に乗り、相模の守重時朝臣の許に向かう(先ず罷り向かうの由、今朝内
  々院に申しをはんぬ)。暫く程を経るの間、先ず人を以て示して云く、見参に入るべ
  き文ヲ只今求め失うの間遅々す。返す返す恐れを為すと。小時出逢う。示して云く、
  殊なる事無きと雖も、世間の事、院の御所の辺御不審有るか。その間の事、関東より
  私に触れ送る事有り。この趣(左近大夫将監時頼、重時の許に遣わすの状なり)を以
  て、内々披露すべきの由なり。予答えて云く、この状を賜いこれを申すべきか。重時
  云く、これ私状なり。奏覧恐れ有るか。予また云く、書写すべきか。重時云く、その
  條猶恐れ有り。予また云く、これを給い篇目を書くべきなり。この時承諾す。忽ち紙
  筆を召し、折帋を以てこれを書く。予二枚を書き、一枚ヲハ後の為重時に与えをはん
  ぬ。即ち参院(円満院宮・大相国・前の内府、この風聞に依って各々参候す)す。御
  前に参り(他人候せず)、これ等の事を申し入れをはんぬ。その趣殊なる事無し。但
  し大納言入道上洛遁世の儀なり。将軍(頼嗣)の家人等これを守り、日来の如く、謀
  略の輩少々罪科に行いをはんぬ。関東静謐なり。天下の事、公家殊に徳政を行わるる
  の條仰せの所なり。叙位・除目以下、この奥裏に在り。万事正道に行わるべし。或い
  は叡慮に任せざる事等これ有るか。自今以後は然るべからず。器量の者を抽賞せらる
  べし。また関東申次の仁、追って計り申すべきの由なり。委事故にこれを記さず。大
  略此の如し。抑も予関東武家の辺疎遠、知音無し。
 

8月28日 甲寅 晴 [葉黄記]
  仰せを奉りまた武家に向かう。昨日の御返事を仰す。條々聞こし食すの由なり。重時
  云く、関東の使者今は下し遣わすべきか。予また帰参しこの由を申す。大甞會用途進
  すべきの由、この次いで仰せらるべきかの由、相国計り申すと。然れども徳政の事こ
  れを執り申す。御返事ニこの事ばかり頗る甘心せざるか。仍ってほぼ子細を申しをは
  んぬ。遂にこれを仰せられず。