1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

9月1日 丙辰
  左親衛若狭の前司泰村を招請し、條々仰せ合わさるる事有り。皆悉く理世の眼目たり
  と。その中仰せて云く、短智の一身軍営の政を扶けるに、頗る自専ざらんことを怖畏
  す。六波羅の相州を招き下し万事を談合せしめんと欲す。これ日来の所存なりと。若
  州然るべからざるの由を申せらるるに依って、暫くこの儀を閣かると。
 

9月8日 癸亥 [葉黄記]
  重時朝臣使者(重家・淳賢)を送り、近江の国伊香郡召次案主職の事、政恒法師関東
  家人たるに依ってこれを執り申す。早く奏すべきの由返答しをはんぬ。十四日事の由
  を申し、院宣を遣わしをはんぬ。
 

9月9日 甲子 天晴
  今暁太白微執法皇星を犯す。
 

9月12日 丁卯
  近習の人々を結番(六番)せらる。その番帳は、左親衛自筆を染めらる。故無く不参
  三箇度に及わば、罪科に処せらるべきの由、右状に載せる所なり。
 

9月16日 辛未 天晴
  寅の刻太白太執法皇星を犯す。相去ること九寸。
 

9月17日 壬申 [葉黄記]
  病を相扶け参院す。南都の衆徒張本の事、院宣を下さる。
 

9月27日 壬午 天晴
  左親衛殊なる所願に依って薬師如来像を造立せらる。今日大納言法印隆弁をして、そ
  の御衣木を加持せしむ。この上綱去年より在京するの間、護持の為頻りに招請せしめ
  給うに就いて、一昨日(二十五日)下着すと。