1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

12月2日 丁亥
  去る月二十三日の除目除書到着す。将軍家従四位下に叙し御うと。
 

12月6日 辛卯
  御不例の事、今に於いては殊なる御事無しと。
 

12月7日 壬辰
  去る月二十七日の除目の聞書到来す。将軍家少将元の如しと。
 

12月12日 丁酉
  入道大納言家の御書左親衛の御方に到来す。條々仰せ下さるる事有るに依って、御請
  文を申せらるべきや否や、内々人々の意見を問わる。委細に及ばずと雖も、御返事有
  るべきかの由と。
 

12月17日 壬寅
  悪党扶持の輩殊に厳制を加えらるべきの由、日来その沙汰有り。今日御教書を諸国の
  守護・地頭等に下さると。その状に云く、
    悪党並びに四一半打ちを籠め置く所領召さるべき事
   右近日、国々の夜討ち・強盗蜂起の由普く風聞す。これ偏に所々の地頭等、悪党並
   びに四一半打ち等を籠め置き、無沙汰を致すが故か。然からば或いは悪党を所領内
   に籠め置き、或いは四一半を打たしむの所に於いては、早く交名を注進せらるべし。
   所職を改易せらるべきなり。この旨を以てその国並びに知行の所々に下知せしめ給
   うべしてえり。仰せに依って執達件の如し。
     寛元四年十二月十七日     左近将監
   某殿
 

12月25日 庚戌 [葉黄記]
  前の相国使い(友景)を関東に遣わし、去る夜帰洛す。秘事等有るか。
 

12月27日 壬子
  今暁将軍家御息災の御祈祷等を行わると。
 

12月28日 癸丑
  今追い入るの者幕府台所に逃げ参る。敵人追い付くの内参入す。時に松田の彌三郎常
  基昼番祇候の間、両方共これを搦め取る。仍って上下騒動す。相州より平左衛門の尉
  ・諏方兵衛入道を差し進せられ、各々事の由を尋ね問う。これ紀伊七郎左衛門の尉重
  経の所従等なり。重経の丹後の国所領の得分物運送の疋夫、去る比財産を荷負いなが
  ら逐電しをはんぬ。諸方を相尋ねるの処、只今米町の辺に於いて適々見逢うと雖も、
  追奔するの処、度を失い推参するの由これを申す。即ち御沙汰を経られ、主人の所為
  に非ずと雖も、彼の郎従すでに命を請けるの後の狼藉なり。縡勝事に及ぶの上は、件
  の丹後の所領を召し放つべきの旨これを定めらると。
 

12月29日 甲寅
  左馬権の頭入道昇蓮と上野入道日阿と、下総の国松岡庄田久安両郷の所務を相論す。
  條々の内、去る文暦元年貢物所済の事、日阿当給人たるに依って、弁償せしむべきの
  由、預所昇蓮訴え申すの間、日阿の拝領は文暦元年十二月十六日なり。全く彼の年貢
  物を徴納せざるの上は、弁済し難きの旨、日阿これを陳ぶ。仍って日来その沙汰有り。
  今日件の郷の本地頭忠幹に仰せ、弁を致せしむべきの由と。