1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

1月1日 乙卯 天晴、風静まる
  椀飯、左親衛御沙汰。御劔は前の右馬権の頭、御調度は能登の前司、御行騰は大隅の
  前司。
 

1月3日 丁巳 天霽
  将軍家御行始め。左親衛の御亭に入御す。若君御前毛利蔵人大夫入道西阿の家に渡御
  すと。
 

1月13日 丁卯
  右大将家法華堂前の人家数十宇失火す。陸奥掃部の助の亭その中に在り。
 

1月17日 辛未 [百錬抄]
  今日、関東の若宮神前庭に螻カク数十万充満す。亥子の時人々これを見付け、翌朝失
  いをはんぬるの由、後日風聞す。
 

1月18日 壬申 [葉黄記]
  去る夜院より大納言二品の御使として、近衛殿(兼経)に参る。執柄の事を仰せらる。
  種々の引出物有りと。南廷並びに手筥・高檀紙等と。殿下去る十四日御院参の時、直
  にほぼこの子細を仰せらる。凡そ去年の関東の騒動、大納言入道(頼経)御上洛以後、
  東山殿(道家)御辺の事、人口静まらず。然れども今に無為す。而るに仙洞の権臣等
  頻りに関東の景気を称し、執奏の旨有り。去年月迫、前の大相国友景を差し、関東に
  遣わす。その次いでにこの事を仰せ合わさる。その趣猶改めらるべきの躰か。事慥な
  らずと雖も、遂に以て此の如きか。去年御拝任の事叡慮より起こる。且つは宸筆の御
  書を以て、関東に仰せ合わさる。今また此の如し。上皇の御意に於いては、頻りに惜
  しみ思し食さるるか。然れども猶黙止せざる事なり。転変人の盛衰誠に夢の如し。
 

1月19日 癸酉 晴 [葉黄記]
  頭の弁(顕朝)院の御使として、殿下に参る。今日の事ほぼ触れ申さると。近衛前の
  関白摂政の詔を蒙り給う。
 

1月22日 丙子 晴陰 [葉黄記]
  参院、年始の上、病後初めての出仕なり。訴訟評定の人数、旧年関東に注し遣わさる。
  神妙の由御返事を申す。但し具實卿ハ、彼の使者下向以後、懇望に依ってこの人数に
  入る。仍って未だ仰せ遣わさざるの由御定有り。評定の事所望の條、如何々々。
 

1月26日 庚辰
  晩景雷鳴数反に及ぶ。

[葉黄記]
  今日評定式日なり。惣て四ヶ條なり。
  一、高野山領(紀伊)名手庄与粉河・寺領(大和)丹生屋村相論の事
    武家に於いて対決を遂ぐ。問注記を以て関東に送る。而るに堺の事に於いては、
    公家の御成敗たるべし。相論の間狼藉出来しをはんぬ。この事に於いては、仰せ
    下さるるに就いて、沙汰を致すべきの由、時頼これを申し上ぐ。仍って評定有り、
    記録所に下勘せらるべきの由、人々これを定め申さる。予甘心せず。
  一、大神宮禰宜長光と同権禰宜範元と相論す、父永元遺跡の事
  一、八幡権別当教清と右衛門の尉盛範と相論す、周防の国得善保の事
  一、賢算律師・算明法橋申す、宿曜道の事
 

1月28日 [百錬抄]
  今日、上皇若宮(宗尊親王)持明院殿に入らしめ給う。御猶子の儀なり。
 

1月29日 癸未
  羽蟻群飛び、鎌倉中に充満すと。
 

1月30日 甲申
  越後入道勝圓の佐介亭の後山に光物飛行す。仍って祈祷を致すと。