1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

2月1日 乙酉
  鶴岡八幡宮御供を備えんと欲するの処、御戸数刻開かれずと。
 

2月6日 庚寅
  申の刻越後入道不例と。
 

2月20日 甲子
  左親衛の御第に於いて、将軍家御浜出の間、犬追物の射手以下人数の事その沙汰有り。
  掃部の助實時これを奉行す。
 

2月23日 丁未
  今日将軍家御浜出始めなり。左親衛参らしめ給い、御座敷等を構えらると。
  犬追物射手
   上手
    北條の六郎     若狭の前司     上野の十郎
    薩摩の七郎     遠江の六郎     小笠原の余一
   中手
    武蔵の六郎     武田の五郎三郎   駿河五郎左衛門の尉
    千葉の次郎     佐々木壱岐の前司  城の九郎
   下手
    陸奥掃部の助    相模の八郎     三浦式部大夫
    大隅太郎左衛門の尉 小山大夫判官    駿河四郎式部大夫
 

2月28日 壬子 雨降る [葉黄記]
  改元の事、内々沙汰等有り。式部大輔菅原朝臣等勘じ申す年号の事、寛正・宝治の間
  用いらるべきか。(略)宝治たるべきの由勅定有り。即ちその由を宣下せんか。