1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

4月3日 丙戌
  鶴岡恒例の神事延引す。
 

4月4日 丁亥
  今日秋田城の介入道覺地(俗名景盛、籐九郎盛長の息)高野より下着す。甘縄の本家
  に在りと。
 

4月11日 甲午
  日来高野入道覺地連々左親衛の御第に参る。今日殊に長居す。内々仰せ合わさるる事
  等有りと。また子息秋田城の介義景に対し殊に諷詞を加え、孫子九郎泰盛に突鼻せし
  むと。これ三浦一党当時武門に秀で、傍若無人なり。漸々澆季に及わば、吾等が子孫
  定めて対揚の儀に足らざるか。尤も思慮を廻らすべきの処、義景と云い泰盛と云い、
  緩怠の稟性、武備無きの條奇怪と。
 

4月14日 丁未
  御台所御不例の間、大納言法印隆弁祇候す。炎魔天供を修し、大般若経を転読すと。
 

4月20日 癸卯
  彼の御不例の事、御邪気たりと。左親衛殊に嘆息すと。
 

4月25日 戊申
  巳の一点暈在りと。今日後鳥羽院の御霊を鶴岡乾の山麓に勧請し奉らる。これ彼の怨
  霊を宥め奉らんが為、日来一宇の社壇を建立せらるる所なり。重尊僧都を以て別当職
  に補せらると。
 

4月26日 己酉
  御祈りの為、御台所の御方に於いて千度御祓いを行わる。陰陽道十人参進す。爰に晴
  茂・晴長等申して云く、御軽服九十日の間は、御除服有りと雖も憚り有るべしと。晴
  賢朝臣以下申して云く、御除服の後は、日数少なきの内と雖も更に以て憚り無し。況
  や九十日の内に於いてをやと。晴茂また先言を翻し今の儀に同ず。晴長は猶これを憤
  り申す。然れども九人一同の申状に就いて、先ず御除服有り。次いで御祓いを行わる。
  その衆晴賢・晴茂・宣賢・為親・晴長・廣資・晴憲・泰房・晴成(晴茂子息)等なり。
  越後右馬の助時親・相模式部大夫時弘等陪膳役たりと。
 

4月28日 辛亥
  御台所御邪気たるの間、長能僧都御験者として祇候すと。今日秋田城の介義景愛染明
  王像を造立・供養す。導師は法印隆弁。これ殊なる祈願有るに依ってなり。即ち秘法
  を修せらると。