1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

5月2日 癸巳 晴 [葉黄記]
  参院評定有り。前の相国・前の内府・吉田中納言・予奉仕す。伝法院の間の事・関東
  請文の事・紀伊の国和佐庄・八田庄の間の事等なり。
 

5月3日 乙卯
  今日鶴岡若宮の神事。二箇月延引の分これを遂行せらる。
 

5月5日 丁巳
  同宮の神事例の如し。今日秋田城の介義景祈請の事等結願す。阿闍梨退出の間禄物等
  を送ると。
 

5月6日 戊午
  若狭の前司泰村の次男駒石丸、左親衛の養子たるべきの由約諾有りと。
 

5月9日 辛酉
  左親衛の御祈祷として尊星王護摩を始行せらる。大納言法印隆弁これを修すと。

[葉黄記]
  今日新日吉社の小五月会なり。上皇臨幸有るべし。(中略)検非違使左大夫尉盛長・
  左尉藤信継等馬場の上下に候しこれを守護す。この外武士等凡そ見物の上下の狼藉を
  警固す。前の相国・相模の守重時朝臣桟敷に於いて見物すと。(中略)次いで流鏑の
  事有り。承久以往北面・西面の輩これに騎る。天福武士これに騎る。今度同じく関東
  に仰せ遣わさる。相模の守重時朝臣(射手速見の四郎、的立)・小笠原(射手、的立)
  ・出雲の前司(射手、的立)・隠岐次郎左衛門(射手、的立)・但馬次郎左衛門(射
  手、的立)・小早河美作の前司(射手、的立)・長井左衛門大夫(射手、的立)等な
  り。関東の下知に依ってこれに騎る。射手先ず上馬(神輿に向かい作法有り)。次い
  で一番を立つ(一的を持ち参進しこれを立つ。次いで弓を取り丈尺を計り二三の的を
  立つ)。射手打ち出る。綾藺笠を着け作法有り。打ち帰り馬を乗り替えこれを射る。
  二番笠の作法無し。また的立弓を持たず。三四五六番同前。七番射手の作法一番の如
  きなり。七番皆以てこれを射中てる。誠に養由に異ならざるか。
  一、流鏑
   一番 相模の守重時朝臣
     射手 逸見の四郎源義利
     的立 桜井左衛門の尉渋野宗平
   二番 小笠原太郎入道長経
     射手 同余一太郎源清経
     的立 土持左衛門太郎田部秀綱
   三番 波多野出雲の前司宣政
     射手 千次郎左衛門の尉藤原盛忠
     的立 波多野藤左衛門の尉藤原廣能
   四番 佐々木隠岐次郎左衛門の尉泰清
     射手 子息新左衛門の尉源義重
     的立 樋口左衛門の尉藤原忠継
   五番 大田二郎左衛門の尉政正
     射手 子息太郎大江政綱
     的立 得田左衛門の尉藤原盛助
   六番
     射手 子息四郎平政景
     的立 高橋新左衛門の尉大宅時光
   七番 長井左衛門大夫泰重
     射手 菅生左衛門二郎小野高泰
     的立 新河右衛門の尉藤原高重
 

5月13日 乙丑
  未の刻御台所遷化す(年十八)。日来御不例の間、祈療その功を竭さるると雖も、終
  に御大事に及ぶなり。これ故修理の亮時氏の息女、左親衛の乙妹なり。左親衛若狭の
  前司の舘に渡御す。御軽服に依ってなり。
 

5月14日 丙寅
  戌の刻御台所左々目谷の故武州禅室(経時)の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服
  を着け供養す。所謂、
   備前の前司      越後右馬の助     遠江左近大夫将監
   春日部甲斐の前司   美濃左近大夫将監   能登右近大夫
   関左衛門の尉     常陸修理の亮     城の次郎
   大隅太郎左衛門の尉  肥前太郎左衛門の尉  後藤三郎左衛門の尉
   駿河の九郎      千葉の八郎      安積新左衛門の尉
   宇佐美七郎左衛門の尉 宮内左衛門の尉    彌次郎左衛門の尉
   伊賀次郎左衛門の尉  太宰三郎左衛門の尉  小野澤の次郎
   加地六郎左衛門の尉  信濃四郎左衛門の尉  出羽次郎兵衛の尉
   摂津左衛門の尉    小野寺四郎左衛門の尉 内藤四郎左衛門の尉
   押垂左衛門の尉    紀伊次郎左衛門の尉  海老名左衛門の尉
 

5月18日 庚午 晴
  今夕光物有り。西方より東天に亘る。その光暫く消えず。時に秋田城の介義景の甘縄
  の家に白旗一流出現す。人これを観ると。

[葉黄記]
  去る夜関東の飛脚来たり云く、去る十三日将軍妻室(時頼妹)死去すと。
 

5月20日 壬申 晴 [葉黄記]
  参院、御咳気別事無し。関東の事に依って天下三十日穢たるべしと。仍って熊野遷宮
  また延引なり。

[百錬抄]
  関東触穢、六波羅混合するや否や。前の相国武家に尋ねらるるの処、将軍御前並びに
  時頼母子同宿なり。彼の使いその所より上洛す。混合の條即ち勿論なり。六波羅乙穢
  なり。件の使い所々に参る。触穢三十ヶ日たるべきかの由、前の相国申せらると。
 

5月21日 癸酉
  若狭の前司泰村独歩の余り厳命に背くに依って、近日誅罰を加えらるべきの由その沙
  汰有り。能々謹慎有るべきの旨、簡面に注し鶴岡の鳥居の前に立て置く。諸人これを
  見ると。
 

5月26日 戊寅
  土方右衛門次郎逐電す。これ若狭の前司に一諾せしむ者なり。而るに一通の願書を或
  る社頭に奉る。不慮に左親衛その旨趣を知らしめ給う。これ則ち彼の一類の叛逆に與
  すべからず。霊神冥助を加え、安全を護らしめ給うべきの由なりと。

[百錬抄]
  関東穢の事、時頼混合せざるの由、泰村これを申せしむ。その儀たらしめば京中穢に
  及ぶべからざるかと。
 

5月27日 己卯
  左親衛御軽服の間、日来若狭の前司泰村の亭に寄宿せしめ給う。而るに今日彼の一族
  群集の形勢有りと雖も、更に御前に祇候するの事無し。ただ閑処に在り。皆髻を取り
  直衣の装いに能わず。これ外には盃酒等を献らんが為専ら経営するに似たりと雖も、
  内には他の用意有るの條掲焉なり。その上、夜に入り鎧腹巻の粧い御耳に響く事有り。
  この程方々より告げ申すの趣、強いて御信用無きの処、忽ち符号するの間思し食し合
  わせ、俄に彼の舘を退き、本所に還らしめ給う。主達一人(五郎四郎と号す)僅かに
  御太刀を持ち御供すと。亭主この事を聞き仰天度を失い、内々陳謝に及ぶと。
 

5月28日 庚辰
  この程世上静かならず。これ偏に三浦の輩逆心有るに依るの間、人性皆怖畏を挿むが
  故なり。件の氏族、官位と云い俸禄と云い、時に於いて恨みを成すべからずと雖も、
  入道大納言家御帰洛の事、殆ど彼の雅意等に叶わず。日を追って恋慕し奉るか。就中、
  能登の前司光村幼少の当初より昵近し奉る。毎夜御前に臥し、日蘭て座右を退く。起
  居に御戯論、折に触れ御興遊、事毎に未だ懐旧を禁ぜざるの上、密々厳約を承る事有
  りと。凡そ関東鬼門の方角に当たり、五大明王院を建立せられ、有験知法の高僧及び
  陰陽道の類を賞翫し、また譜代の勇士等を愛し給うと。衆人の察する所、ただ濫世の
  基なり。果たして光村等存案の旨、すでに発覚と謂うべし。これに就いて左親衛今夜
  御使を若狭並びに親類・郎従等の辺に廻らし、その形勢を窺わしめ給うの処、面々兵
  具を家内に整え置く。剰え安房・上総以下の領所より、船を以て甲冑の如きを運び取
  る。縡更に隠密の企てに非ざるかの由これを申すと。
 

5月29日 辛巳
  三浦五郎左衛門の尉左親衛の御方に参る。申して云く、去る十一日陸奥の国津軽の海
  辺に大魚流れ寄る。その形偏に死人の如し。先日由比の海水赤色の事、もしこの魚の
  死せるが故か。随って同比、奥州の海浦の波濤赤くして紅の如しと。この事則ち古老
  に尋ねらるるの処、先規不快の由これを申す。所謂文治五年夏この魚有り。同秋泰衡
  誅戮す。建仁三年夏また流れ来たる。同秋左金吾御事有り。建保元年四月出現す。同
  五月義盛大軍。殆ど世の御大事たりと。