1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

6月1日 壬午
  左親衛近江四郎左衛門の尉氏信を以て御使と為し、若狭の前司泰村に仰せ遣わさるる
  の事有り。人その旨趣を知らず。氏信彼の家に向かい、先ず侍の上に着き事の由を案
  内せしむ。而るに亭主相逢うの程傍らを見るに、弓数十張・征矢並びに鎧唐櫃・棹数
  十本これを置く。氏信これを怪しみ思うに就いて、郎従友野の太郎(この所の案内者
  なり)をして舘内を窺わしむの処、厩侍に積み置く所の鎧唐櫃、仮令百二三十合かの
  由、氏信に達すと。頃之泰村氏信を出居に請じ入れ、仰せの事を承る。後互いに雑談
  に及ぶ。泰村、この間世上の物騒、偏に一身の愁いに似たり。その故は、兄弟共他門
  の宿老に超越し、すでに正下五位たるなり。その外一族多く官位を帯び、剰え守護職
  数箇国・庄園数万町、吾衆の所掌なり。栄運すでに窮まりをはんぬ。今に於いては上
  天の加護頗る測り難きの間、讒訴の慎み無きに非ずと。氏信帰参し、御返事を申す。
  また彼の用意の次第、内々旧労の人々に相語る。仍って殿中御用心、いよいよ厳密の
  御沙汰に及ぶと。
 

6月2日 癸未
  近国の御家人等南より北より馳参し、左親衛の郭外の四面を囲繞す。雲の如く霞の如
  く各々旗を揚ぐ。相模の国の住人等は皆陣を南方に張る。武蔵の国の党々並びに駿河
  ・伊豆の国以下の輩は、東西北の三方に在り。すでに四門を閉め、輙く推参の者無し。
  また雑役の車を聚め辻々を排べ固む。時に遠江の守盛連の子息等悉く左親衛の御第に
  参籠す。これ若狭の前司は一類たりと雖も、敢えて同意の儀無し。且つは光盛以下は、
  故匠作時氏の旧交を重んじ、更に貳を存ぜざるが故なり。兄二人はまたこれに引かる。
  而るを佐原の太郎経連・比田の次郎廣盛・次郎左衛門の尉光盛・藤倉の三郎盛義・六
  郎兵衛の尉時連等、未だ鎖門せられざるの以前参入す。五郎左衛門の尉盛時は聊か遅
  参するの間、光盛等甚だ周章す。時連云く、縦え門戸を閉せらると雖も、五郎左衛門
  の尉参入には、滞りべからざるものかと。詞未だ終わらざるに手を挟板の上に懸ける
  者、諸人目を属けるに、これ盛時なり。一瞬の程、件の挟板を飛び超え庭上に立つ。
  兄弟等殊にこれを待ち喜ぶ。諸人これに感ぜざると云うこと莫し。左親衛また頻りに
  御入興。則ち諏方兵衛入道蓮佛を以て、先ず面々にこれを賀し仰せらる。次いで御前
  に召し鎧を賜うと。
 

6月3日 甲申 天晴、風静まる
  左親衛無為の御祈請を始めらる。即ち大納言法印隆弁五穀を断ち、殿中に於いて如意
  輪秘法を修すと。この外他の御祈祷に及ばずと。今日若狭の前司泰村の南庭に落書有
  り(桧板に注す)。その詞に云く、
   この程世間のさわく事、なにゆへとかしらて候。御辺うたれ給へき事なり。思ひま
   いらせて、御心得のために申候。と
  若州身の存亡の害を為す仁の所為の由これを称し、即ち破却しをはんぬ。然れども左
  親衛の御方に申し入れて云く、閭巷の謳歌に就いて、人の内議察するに、身上の事そ
  の怖れ無きに非ず。泰村に於いては更に野心を存ぜずと雖も、物騒に国々の郎従等を
  催せられ、来集有る事、定めて讒訴の基たるか。これに依って御不審有らば、早く追
  い下すべし。もしまた他に誡めらるべき上の事有らば、衆力無くば御大事を支うべか
  らず。進退宜しく貴命に随うべしと。敢えて氷疑に及ばざるの旨御返事有りと。凡そ
  去る月夜中俄に彼の舘を出て、本所に還らしめ給う以来、泰村甚だ歎息し、朝暮心府
  を費やし、すでに寝食を忘れると。
 

6月4日 乙酉 天陰
  若狭の前司泰村並びに一族等の郎従・眷属、彼是諸国の領所より来集す。彼の西御門
  の宿所、甲冑を着す士卒相列りて墻壁を成す。また惣御家人及び左親衛の祇候人同じ
  く群参す。日を追って数を増すの間、鎌倉中の門々戸々に充満し、自他の軍勢を差別
  せしむべからずと。縡すでに重事に及ぶべきの形勢なり。これに依って今日退散すべ
  きの由相触るべきの旨、保々の奉行人に仰せらるるの上、諏方兵衛入道・万年馬入道
  等御使として、直に厳制を加うと。而るを関左衛門の尉政泰御旨に応じ、鎌倉を出て
  常陸の国に下向するの処、路次に於いて泰村を追討せらるべきの由或る人の告げを聞
  き、泰村に相加わらんが為、夜に入り猶鎌倉に帰る。これ彼の妹を嫁すに依って、終
  に坐事を遁れべからざるの旨存じ切るが故なりと。子の刻毛利入道西阿の妻(白小袖
  ・褐帷を着し、僅かに従女一人を具す)忽然として兄若狭の前司泰村の西御門の宿所
  に到りて云く、この程騒動の事、何と無く思い入れざるの処、貴殿を伐たるべきの由
  慥にその告げを聞く。この上は相構えて乗勝を求めらるべし。然れば毛利入道は、定
  めて與力の志を励まんか。縦え貮心有りと雖も、吾身諷諫を加え、一同を為さしむべ
  きの由と。
 

6月5日 丙戌 天晴、辰の刻小雨灑ぐ
  今暁鶏鳴以後、鎌倉中いよいよ物騒す。未明左親衛先ず万年馬入道を泰村の許に遣わ
  し、郎従等の騒動を相鎮むべきの由を仰せらる。次いで平左衛門入道盛阿に付け、御
  書を同人に遣わさる。これ則ち世上の物騒、若くは天魔の人性に入るか。上計に於い
  ては、貴殿を誅伐せらるべきの構えに非ざるか。この上日来の如く異心有るべからざ
  るの趣なり。剰え御誓言を載せ加えらると。泰村御書を披くの時、盛阿詞を以て和平
  を述べ子細を談るに及ばず。泰村殊に喜悦し、また具に御返事を申す所なり。盛阿座
  を起つの後、泰村猶出居に在り。妻室自ら湯漬けをその前に持ち来たりこれを勧む。
  その後下若これを勧め、安堵の仰せを賀す。泰村一口これを用い、即ち反吐すと。
  爰に高野入道覺地御使を遣わさるるの旨を伝え聞き、子息秋田城の介義景・孫子九郎
  泰盛(各々兼ねて甲冑を着す)を招き、諷詞を尽くして云く、和平の御書を若州に遣
  わさるるの上は、向後彼の氏族独り驕りを窮め、益々当家を蔑如するの時、なまじい
  に対揚の所存を顕わさば、還って殃に逢うべきの條、置いて疑い無し。ただ運を天に
  任せ、今朝須く雌雄を決すべし。曽て後日を期すこと莫れてえり。これに依って城の
  九郎泰盛・大曽祢左衛門の尉長泰・武藤左衛門の尉景朝・橘薩摩の十郎公義以下一味
  の族軍士を引率し、甘縄の舘を馳せ出て、同門前小路を東に行き、若宮大路中下馬橋
  に到り北に行き、鶴岡宮寺赤橋を打ち渡り相構う。盛阿帰参の以前、神護寺門外に出
  て時の声を作す。公義五石畳紋の旗を差し揚げ、筋替橋北の辺に進み、鳴鏑を飛ばす。
  この間陣を宮中に張る所の勇士悉くこれに相加わる。而るを泰村今更仰天しながら、
  家子・郎従等をして防戦せしむの処、橘薩摩の余一公貞(甲冑を着けず、狩装束たり)
  は、兼日より意を先登に懸け、潛かに車排の内に入り、泰村近辺の荒屋に宿す。時の
  声に付いて、小河の次郎に進み寄り射殺さる。中村馬五郎これに相並ぶ。皆泰村郎等
  の為疵を蒙らる。
  これより先盛阿駕を馳せ帰参せしめ、事の次第を申すと雖も、三浦の一類用意の事有
  るの條は勿論と雖も、旁々御沙汰有るに依って、和平の議を廻らさるるの処、泰盛既
  に攻戦に及ぶの上は、宥め仰せらるるに所無し。先ず陸奥掃部の助實時を以て幕府を
  警衛せしむ。次いで北條の六郎時定を差し、大手の大将軍と為す。時定車排を撤わし
  め、旗を揚げ塔辻より馳せ逢う。相従うの輩雲霞の如し。諏訪兵衛入道蓮佛無双の勲
  功を抽んず。信濃四郎左衛門の尉行忠殊に勝負を決し分取りを獲る。凡そ泰村の郎従
  ・精兵等、所々に辻衢に儲け矢石を発つ。御家人また身命を忘れ責め戦う。
  巳の刻毛利蔵人大夫入道西阿甲冑を着け従軍を率し、御所に参らんが為打ち出るの処、
  彼の妻(泰村妹)西阿の鎧の袖を取りて云く、若州を捐て左親衛の御方に参るの事は、
  武士の致す所か、甚だ年来の一諾に違いをはんぬ。盍ぞ後聞を恥ざらんかやてえり。
  西阿この詞を聞き、退心を発し泰村の陣に加わる。時に甲斐の前司泰秀の亭は西阿の
  近隣なり。泰秀は御所に馳参するの間、西阿に行き逢うと雖も抑留するに能わず。是
  非に親昵の好を存じ、且つは泰村に與同するの本意に却かず。一所に於いて追討に加
  わらんが為なり。尤も武道の有情に叶うと。万年馬入道左親衛の南庭に馳参し、騎馬
  せしめながら申して云く、毛利入道殿敵陣に加わられをはんぬ。今に於いては世の大
  事必然たるか。左親衛この事を聞き、午の刻御所に参り将軍御前に候せられ、重ねて
  奇謀を廻らさる。
  折節北風南に変わるの間、火を泰村南隣の人屋に放つ。風頻りに扇き、煙彼の舘を覆
  う。泰村並びに伴党烟に咽び舘を遁れ出て、故右大将軍の法華堂に参籠す。舎弟能登
  の守光村は永福寺惣門内に在り。従兵八十余騎陣を張る。使者を兄泰村の許に遣わし
  て云く、当寺は殊勝の城郭たり。この一所に於いて相共に討手を待たるるべしと。泰
  村答えて云く、縦え鉄壁の城郭有りと雖も、定めて遁れ得ざらしめんか。同じくは故
  将軍御影の御前に於いて終わりを取らんと欲す。早くこの処に来会すべしと。専使互
  いに一両度たりと雖も、縡火急の間、光村寺門を出て法華堂に向かう。その途中に於
  いて一時合戦す。甲斐の前司泰秀の家人並びに出羽の前司行義・和泉の前司行方等こ
  れを相支えるに依ってなり。両方の従軍多く疵を被ると。
  光村終に件の堂に参る。然る後西阿・泰村・光村・家村・資村並びに大隅の前司重隆
  ・美作の前司時綱・甲斐の前司實章・関左衛門の尉政泰以下、絵像の御影の御前に列
  候す。或いは往時を談り或いは最後の述懐に及ぶと。西阿は専ら念仏を修するものな
  り。諸衆を勧請し、一仏浄土の因を欣ばんが為、行法事讃これを回向す。光村調声を
  為すと。左親衛の軍兵寺門に攻め入り、石橋を競い登る。三浦の壮士等防戦し弓劔の
  芸を竭す。武蔵蔵人太郎朝房責め戦い大功有り。これ父朝臣義絶の身として、一有情
  の相従う僕無く、疲馬に駕すばかりなり。甲冑を着けざるの間、輙く討ち取らんと欲
  するの処、金持次郎左衛門の尉(泰村方)に扶けられ、その命を全すと。両方の挑戦
  は殆ど三刻を経るなり。敵軍箭窮まり力尽く。而るを泰村以下宗たるの輩二百七十六
  人、都合五百余人自殺せしむ。この中幕府番帳に聴さるるの類二百六十人と。
  次いで壱岐の前司泰綱・近江四郎左衛門の尉氏信等仰せを承り、平内左衛門の尉景茂
  を追討せんが為、彼の長尾の家に行き向かい時の声を作すの処、家主父子は法華堂に
  於いて自殺しをはんぬ。敢えて防戦の人等無し。仍って各々空しく轡を廻らす。但し
  子息四郎景忠に行き逢い、これを生虜り将て参ると。甲冑の勇士等十余騎、壱岐の前
  司の行路を塞ぎ先登を諍うの間、泰綱その名字を問うと雖も、敢えて返答に能わず。
  而るに景茂等所在せざるに依って、合戦の儀無し。剰え彼の勇士名謁ながら逐電すと。
  申の刻死骸を実検せらるるの後、飛脚を京都に進せらる。御消息二通を六波羅の相州
  に遣わす。一通は奏聞、一通は近国の守護・地頭等に下知せしめんが為なり。また事
  書一紙同じく相副えらるる所なり。左親衛御所休幕に於いてこれを申し沙汰せらる。
  その状に云く、
   若狭の前司泰村・能登の前司光村以下舎弟一家の輩、今日巳の刻すでに箭を射出す
   の間合戦に及ぶ。終にその身以下一家の輩及び余党等誅罰せられ候いをはんぬ。こ
   の趣を以て、冷泉太政大臣殿に申し入れしめ給うべく候。恐々謹言。
     六月五日           左近将監
   謹上 相模の守殿

   追啓(礼紙申状に云く)
   毛利入道西阿不慮に同心せしむの間、誅罰せられ候いをはんぬ。若狭の前司泰村・
   能登の前司光村並びに一家の輩・余党等、兼日用心せしむの由その聞こえ有るの間、
   用意せられ候の処、今日(五日巳の刻)箭を射出せしむの間合戦に及ぶ。その身以
   下一家の輩・余党等誅罰せられをはんぬ。各々この旨を存じ馳参すべからず。且つ
   また近隣に相触るべきの由、普く西国の地頭・御家人に下知せしめ給うべきの状、
   仰せに依って執達件の如し。
     六月五日           左近将監
   謹上 相模の守殿

  事書に云く、
   一、謀叛の輩の事
    宗たる親類・兄弟等は、子細に及ばず召し取らるべし。その外京都の雑掌・国々
    代官・所従等の事は、御沙汰に及ばずと雖も、委しく尋ね明かし、注し申すに随
    い、追って御計有るべしてえり。

[保暦間記]
  三浦駿河守が子に若狭守泰村と申は、時頼縁有けるに依て、驕を成す事無双なり。ま
  た秋田城介義景も去る子細有て権を取けり。二人中悪して煩多かりけり。義景種々の
  謀をして讒言を成ける程に、泰村誅せらる。舎弟能登守光村・式部丞景村、彼の一族
  縁有けるにや、毛利蔵人入道西阿以下、右幕下の法華堂に引籠て自害しけり。是も恣
  なる事共なり。その後義景法師子息泰盛権を取事並び無し。これを宝治合戦と申なり。
 

6月6日 丁亥
  上総権の介秀胤を討ち取るべきの旨、大須賀左衛門の尉胤氏・東中務入道素暹等に仰
  せ付けらる。秀胤は泰村の妹婿たるに依ってなり。また武蔵の国六浦庄内、余党人等
  群居の由風聞するの間、領主陸奥掃部の助實時に仰せ、家人等を差し遣わすの上、薩
  摩の前司祐長・小野寺小次郎左衛門の尉通業同じく御旨を含み、これを追捕せんが為
  行き向かうと雖も、その実無きに依って各々帰参すと。今日遅く逆党の首等実検に及
  ぶと。また光村・家村等の首、頗る御不審有り、未だ一決せられずと。また大倉次郎
  兵衛の尉武蔵の国に発向す。残卒の隠居する所を尋ね求めんが為なり。

[葉黄記]
  夜に入り武家の辺物騒の由巷説有り。また御所に帰参す。重時朝臣の子息左近大夫長
  時将軍女房の事に依って、去る月関東に下向しをはんぬる頃不審の事等有り。先ず子
  細を父の許に触る。飛脚去る三日関東を起ち、今日馳せ着く。重時朝臣未だ分明の子
  細を申さず。ただ用心の事有るの由申しをはんぬ。
 

6月7日 戊子 天晴
  胤氏・素暹等秀胤の上総の国一宮大柳の舘を襲う。時に当国の御家人雲霞の如く起こ
  りて合力を成す。秀胤兼ねて用意するの間、炭薪等を舘の郭外の四面に積み置き、皆
  悉く放火す。その焔太だ熾んにして人馬の路を通るべきに非ず。仍って軍兵轡を門外
  に安んじ、僅かに時の声を造り箭を発つ。爰に敵軍馬場の辺に出逢い答箭を射る。こ
  の間上総権の介秀胤・嫡男式部大夫時秀・次男修理の亮政秀・三男左衛門の尉泰秀・
  四男六郎景秀、心静かに念仏・読経等の勤めを凝らし各々自殺す。その後数十宇の舎
  屋同時に放火す。内外の猛火混って半天に迸る。胤氏以下の郎従等その熾勢に咽び、
  還って数十町の外に遁避す。敢えて彼の首を獲ること能わずと。また下総の次郎時常
  昨夕よりこの舘に入り籠もり、同じく自殺せしむ。これ秀胤の舎弟なり。亡父下総の
  前司常秀の遺領垣生庄を相伝するの処、秀胤の為押領せらるるの間、年来欝陶を含む
  と雖も、斯くの時に至り死骸を一席に並ぶ。勇士の美談とする所なり。抑も泰村誅罰
  の事、五日午の刻に当国の聴に通ずと。
 

6月8日 己丑 天晴
  常陸の国に於いて関左衛門の尉政泰の郎従等と小栗の次郎重信と合戦を致す。終に彼
  の郎従等雌伏し、舎屋悉く放火す。余炎数町に及ぶ。設刺数家に有り。凡そ村南・村
  北の哭声尤も多しと。今日法華堂の承仕法師一人を召し出さる。これ昨日香花を備え
  んが為仏前に陪するの処、泰村以下大軍俄に堂内に乱入するの間、遁れ出んと欲する
  に方角を失い、天井に昇る。彼等面々の言談を聞くの由上聴に達するが故なり。仍っ
  て平左衛門の尉盛時・万年馬入道等件の子細を召し問い、申す詞を記せしめ、披閲に
  及ぶと。その大意、中山城の前司盛時これを記す。
   天井の隙を窺うの処、若狭の前司泰村以下の大名は、兼ねてその面を見知るの間子
   細無し。その外多く以て知らざるの類なり。次いで申す詞の事、人毎の事に於いて
   は、堂中鼓騒の上、末席の言談等聞き及ぶに能わず。而るに宗たるの仁、一期の終
   わりと称し、日来の妄念を語る。大半これ泰村・光村等権柄を執らしめば、氏族の
   号を以て飽くまで官職を極め、所々を領掌すべきの趣なり。就中光村万事骨張の気
   有るか。入道頼経御料の御時、禅定殿下内々の仰旨に任せ、即ち思い企てるに於い
   ては、武家の権を執るべきの條相違有るべからずと。なまじいに若州の猶予に随う
   に依って、今啻に愛子の別離を愁うのみならず、永く当家滅亡の恨みを貽さんと欲
   す。後悔余り有りてえり。自ら刀を取り吾顔を削り、猶見知らるべきや否や、人々
   に問う。その流血御影を穢し奉る。剰え仏閣を焼失せしめ、自殺の穢躰を隠すべき
   の由結構す。両事共不忠至極たるべきの旨、泰村頻りに制止を加えるの間、火災に
   能わず。凡そ泰村事に於いて穏便の気有り。その詞に云く、数代の功を思えば、縦
   え累葉たりと雖も罪條を宥めらるべし。何ぞ況や義明以来四代の家督たり。また北
   條殿の外戚として内外の事を補佐するの処、一往の讒に就いて多年の昵を忘れ、忽
   ち誅戮の恥を與えらる。恨みと悲しみと計会するものなり。後日定めて思い合わさ
   るる事有らんか。但し故駿河の前司殿、他門の間より多く死罪を申し行い、彼の子
   孫を亡ぼしをはんぬ。罪報の果たす所か。今すでに冥途に赴くの身、強ち北條殿を
   恨み奉るべきに非ずと。落涙千行す。その音振るえて言語詳かならずと雖も、旨趣
   仮令斯くの如きかと。
  能登の前司光村の首の事、面を削るの由聞こし食され、御不審を散ずる所なり。四郎
  式部大夫家村の首に於いては、今に在所無しと。件の承仕法師に至りては本所に返し
  遣わさる。この外承仕一人は、去る五日本堂内を避けざるに依って、大床下に奔り入
  るの間、歩兵等の為首を取らるるの由、七旬の母老尼悲哭す。而るを彼の首実検の時
  出現すと。
 

6月9日 庚寅
  武蔵の国に於いて、左衛門の尉景頼金持次郎左衛門の尉を生虜らしめ将て参る。これ
  泰村に與力せしめ、去る五日法華堂に籠もり合戦を致す。俄に約諾を改変し逐電す。
  時に赤威の鎧を着し、鴾毛の馬に駕す(一人甲冑、郎従一人、両馬たり)。彼の寺の
  後山の嶮岨に挙じ登ると。同六日武蔵の国河簀垣の宿に到る。爰に景頼郎従等これを
  搦め捕ると。

[葉黄記]
  世上物騒す。仍って即ち帰参す。関東より飛脚到来し、重時子細を申す。去る五日前
  の若狭の守泰村(三浦これなり)すでに旗を揚げ打ち立つ。仍って時頼将軍家に参る。
  また打手等を遣わす。合戦等放火風吹き掩うの間、泰村落ちをはんぬ。各々頼朝卿の
  墓堂に止入し自害す。巳午未三ヶ時勝負をはんぬ。泰村・光村(泰村方)以下三浦一
  族皆誅せられをはんぬ。惣て自害の輩三百人に及ぶと。森入道日来時頼方たるか。遂
  に泰村に同意し同じく誅せられをはんぬと。去年以来泰村威勢を繕うに於いて、今以
  て此の如し。日来種々の巷説有り信用を用いざるの処、果たして以て此の如し。
 

6月10日 辛卯
  春日部甲斐の前司實景子息の嬰児一人、武蔵の国より到来すと。今日戦士等の勲功の
  賞所望の款状を召さるるに、相積んで数十通に及ぶ。またこの程警衛の勤めを致すの
  士、面々着到を注しこれを献覧せしむに就いて、左親衛判形を加え、本人に返さると。

[葉黄記]
  関東の穢気に依って神事等の進退沙汰有り。予伝奏なり。穢気の事、建保義盛の時は
  京都穢気の沙汰無し。然れども承久以後関東と洛中と他に異なり、今度合戦せらるる
  の穢これ洛中に及ぶべきこと勿論と。これに就いて祇園御霊会は天永の例に任せ猶こ
  れを行わるべし。(中略)泰村弟良賢律師以下、洛中経廻の縁者等重時朝臣これ尋ね
  捜すと。白川辺近々の間その恐れ有るに依って、三位殿去る夜よりこの亭に渡る。
 

6月11日 壬辰
  前の刑部少輔忠成朝臣評定衆を除かる。毛利入道西阿に同意するの過に依ってなり。
  今日東入道素暹愁い申す事有り。これ上総五郎左衛門の尉泰秀は、素暹の息女を嫁し
  男子を生む。今年一歳なり。縦え縁坐に所せらるべきと雖も、当時襁褓の内に纏われ、
  是非を知るべからざるものか。今度一方の追討使の賞に募り、預かり置くべきの由を
  申すと。請いに依るべきの旨仰せ出さると。また越後入道勝圓申して云く、孫子掃部
  の助太郎信時(十三歳)は、泰村の外孫たるなり。去る五日事の由緒を知らず、ただ
  騒動せしむるに就いて馳参しをはんぬ。若くは召し置くべき事かと。

[葉黄記]
  参院、数刻勅語を承る。世上の事徳政の沙汰なり。関東の事落居の後、御使を遣わし
  徳政の事を仰せ合わさるべし。その仁定嗣の外これ無し。下向すべきの由御密語有り。
  太だその仁に非ざるの由恐れながらこれを申し上ぐ。重ねて仰せに云く、関東下向の
  事、前の相国以下皆この例有り。今ハ嫌うべき事に非ず。上人渡唐の後譽れ有り。こ
  の使節を遂げるの条名誉たるべきかの由仰せ有り。この事当時一言の事に非ず。今子
  細を申すべきに非ず。事実たるの時猶々思惟すべき事か。(中略)また泰村縁者の女
  房の祇候これを出さる。
 

6月12日 癸巳
  筑後左衛門次郎知定、去五日筋替橋に於いて若狭の前司泰村の郎従岩崎兵衛の尉を討
  ち取るの間、事状に勒しその賞を望み申す。而るに知定は泰村の縁者として、彼の当
  日の朝に至るまで、件の舘に経廻しをはんぬ。合戦敗北の今、自殺の首を取り勧賞を
  申すの條、還って罪科に行わるべきかの由その沙汰出来す。今日平左衛門の尉の奉行
  として知定に決せらるるの処、大曽祢左衛門の尉長泰・武藤左衛門の尉景頼等相共に
  合戦せしむ所なり。宜しく彼の両人に尋ねらるべし。詞を費やすに及ばざるの旨知定
  これを申す。
 

6月13日 甲午
  左親衛猶幕府に候せらる。これに於いて万事を聴断せしめ給う。去る三日始行せらる
  る所の如意輪法結願するの間、大納言法印隆弁巻数を献る。仍って左親衛仰信の余り、
  御自筆を染め賀章を遣わされて云く、今度合戦の間、関東平安、併しながら御法験の
  致す所なりと。今日大須賀八郎左衛門の尉範胤囚人と為るなり。去る五日法華堂の戦
  場より逐電すと。
 

6月14日 乙未
  今度の張本等の後家並びに嬰兒等悉くこれを尋ね出さる。所謂泰村の後家は、鶴岡別
  当法印定親の妹なり。二歳の男子在り。光村の後家は、後鳥羽院の北面医王左衛門の
  尉能茂法師の女、当世無双の美人なり。光村殊に愛念の余執有り。最期の時、互いに
  小袖を取り替えこれを改め着す。その余香相残るの由、今に悲歎咽鳴すと。同じく赤
  子有り。家村の後家は、嶋津大隅の前司忠時の女子なり。三人の嬰兒在り。妾腹を加
  う。これ等皆落餝せしむ所なり。今日三浦駿河の三郎員村の子息小童囚人と為るなり。
  河津伊豆の守尚景に召し預けらると。夕に及び六波羅の飛脚参着す。合戦の事に依っ
  てなり。これより遣わさるる所の飛脚去る九日入洛するの間、御教書を冷泉太政大臣
  殿に付け進せ執柄を申す。即ちまた奏達に及ぶと。世上無為に属く事、殊に悦び聞こ
  し食さるるの旨仰せ下さるる所なり。

[百錬抄]
  関東の飛脚到来す。去る九日上総の介秀胤誅罰せらると。
 

6月15日 丙申
  去る五日平左衛門入道盛阿を以て、若狭の前司泰村に遣わさるる所の左親衛の御文出
  来す。後家返し進す所なり。御尋ね有るが故か。殊に重宝の由を存じ、紛失せしむべ
  からざるの旨泰村示し付くの間、到来の時より、護り緒に結び付く。西御門の舘放火
  に依って、楚忽に走り出ると雖も、猶これを随身すと。別して御感有りと。

[葉黄記]
  昨日関東の飛脚到来す。上総の介秀胤誅罰せられをはんぬ。また良賢律師武家を出る。
 

6月16日 丁酉
  信濃民部大夫入道行然に仰せ、今度の亡卒の遺領等を注せらる。宗たるの輩分は子細
  に及ばず。その外は惣て領主等に尋ねらると。今日、越後入道の御返事を仰せらる。
  孫子太郎信時の事、外孫の寄せ、更に怖畏の限りに非ず。その上去る五日敵陣に対し
  すでに箭を発ちをはんぬ。頗るその忠有るの由、左親衛還って潤色の御詞を加えらる
  と。これ祖父禅門の申状穏便の故なりと。
 

6月17日 戊戌
  故上総の介の末子一人(一才)・同修理の亮の子息二人(五才・三才)・垣生の次郎
  の子息一人(四才)、各々出来す。面々検見を加えらる。人々これを預かり守護す。
 

6月18日 己亥
  鶴岡の別当法印定親籠居す。若狭の前司泰村の縁坐に依ってなり。諏方兵衛入道蓮佛
  仰せを伝うと。
 

6月19日 庚子
  豊田源兵衛の尉法師の子息太郎兵衛の尉・次郎兵衛の尉兄弟二人囚人と為るなり。日
  来半面すと。高麗寺衆徒等の告げに依って生虜らるる所なり。
 

6月20日 辛丑
  駿河八郎左衛門の尉胤村日者奥州に在り。一族滅亡の由を聞き、出家を遂げるの上、
  囚人として小山大夫判官長村これを召し進す。また彼の亡師の遺領等多く以てこれを
  注進せらる。その中駿河の九郎重村相伝せしむ知行数箇所の領家職、これ垂髪たるの
  比、弁僧正坊定豪これを寵愛せしむに就いて、或いは相伝の地を以てこれを譲り、或
  いは他領を買得せしめこれを與う等なり。この事買得領に於いては子細に及ばず。本
  所の地に有らば、没官領に処せらるべきや否や、今日内々沙汰を経らる。評定に伺う
  べきの趣、左親衛仰せらると。

[鶴岡八幡宮文書]
   寄進奉る 鶴岡八幡宮御領の事
    相模の国(三浦郡)矢部郷
   右謀逆の輩有ると雖も、忽ち以て誅しをはんぬ。これ即ち神道加護の致す所なり。
   敬神の為寄進し奉る所件の如し。
     宝治元年六月二十日      右少将藤原(頼嗣花押)
 

6月21日 壬寅
  佐原十郎左衛門の尉・三郎秀連、奥州に於いて討ち取りをはんぬるの由、留守の介馳
  せ申す所なり。
 

6月22日 癸卯
  去る五日合戦の亡師以下の交名、宗たる分日来これを注す。今日御寄合座に於いて披
  露に及ぶと。
  自殺・討死等
   若狭の前司泰村      同子息次郎景村   同駒石丸
   能登の前司光村      同子息駒王丸    駿河式部三郎
   同五郎左衛門の尉     同弟九郎重村    三浦又太郎式部大夫氏村
   同次郎          同三郎       三浦の三郎員村
   毛利蔵人大夫入道西阿   同子息兵衛大夫光廣 同次郎蔵人入道
   同三郎蔵人        同子息吉祥丸    大隅の前司重隆
   同子息太郎左衛門の尉重村 同次郎       平判官太郎左衛門の尉義有
   同次郎高義        同四郎胤泰     同次郎
   高井兵衛次郎實茂     同子息三郎     同四郎太郎
   佐原十郎左衛門の尉泰連  同次郎信連     同三郎秀連
   同四郎兵衛の尉光連    同六郎政連     同七郎光兼
   同十郎頼連        肥前太郎左衛門の尉胤家 同四郎左衛門の尉光連
   同六郎泰家        佐原七郎左衛門太郎泰連 長江次郎左衛門の尉義重
   下総の三郎        佐貫次郎兵衛の尉  稲毛左衛門の尉
   同十郎          臼井の太郎     同次郎
   波多野六郎左衛門の尉   同七郎       宇都宮美作の前司時綱
   同子息掃部の助      同五郎       春日部甲斐の前司實景
   同子息太郎        同次郎       同三郎
   関左衛門の尉政泰     同子息四郎     同五郎左衛門の尉
   能登左衛門大夫仲氏    宮内左衛門の尉公重 同太郎
   弾正左衛門の尉      同弟十郎      多々良次郎左衛門の尉
   石田大炊の助       印東の太郎     同子息次郎
   同三郎          平塚左衛門の尉光廣 同子息太郎
   同小次郎         同三郎       同土用左兵衛の尉
   同五郎          得富の小太郎    遠藤太郎左衛門の尉
   同次郎左衛門の尉     佐野左衛門の尉   同子息太郎
   佐野の小五郎       榛谷の四郎     同子息彌四郎
   同五郎          同六郎       白河判官代
   同弟七郎         同八郎       同式部の丞
   上総権の介秀胤      同子息式部大夫時秀 同修理の亮政秀
   同五郎左衛門の尉泰秀   同六郎秀景     垣生の次郎時常
   武左衛門の尉       同一族       長尾平内左衛門の尉景茂
   同新左衛門の尉定村    同三郎為村     同次郎左衛門の尉胤景
   同三郎左衛門の尉光景   同次郎兵衛の尉為景 同新左衛門四郎
   秋庭の又次郎信村     岡本次郎兵衛の尉  同子息次郎
   橘大膳の亮惟廣      同子息左近大夫   同弟橘蔵人
  存亡不審
   駿河式部大夫家村
  生虜の輩
   駿河八郎左衛門の尉胤村(出家) 金持次郎左衛門の尉 毛利文殊丸
   豊田太郎兵衛の尉     同次郎兵衛の尉      長尾次郎兵衛の尉
   美濃左近大夫将監時秀   大須賀八郎左衛門の尉
  逐電
   小笠原の七郎       大須賀七郎左衛門の尉   土方右衛門次郎
 

6月23日 甲辰
  春日部甲斐の前司實景の幼息一人、武蔵の国よりこれを将て参る。今日、神社仏寺等
  新加の御領有り。鶴岡八幡宮・右大将家法華堂等なり。また去る五日の合戦の賞を行
  わる。すでに数十人に及ぶ。而るに筑後左衛門次郎知定、若狭の前司の郎従岩崎兵衛
  の尉を討ち取りながら、その賞に漏れる。これ知定は泰村に同意するの疑い有って、
  黙止せらるるの由と。

[葉黄記]
  相州関東に下向すべしと。

[百錬抄]
  関東の飛脚去る夜到来す。重時朝臣急ぎ下向すべきの由示し送ると。勲功の賞已下の
  事、未だその沙汰に及ばず。示し合わすべきの由風聞すと。
 

6月24日 乙巳
  故能登の前司光村自筆を染め或る所に遣わすの状、献覧するの人有り。隠謀の企て頗
  る掲焉なり。仮令その詞を載せずと雖も、旨趣推量に足るなりと。

[葉黄記]
  参院、予御使として武家に向かうべきの由沙汰有り。辞し申しをはんぬ。
 

6月25日 丙午
  若州以下亡卒の後家等、活命の御計有るべきの由御沙汰に及ぶ。且つは鎌倉中に居住
  すべからざるの旨、彼の輩に召し仰すべしと。信濃民部大夫入道行然・平左衛門の尉
  盛時等奉行たり。
 

6月26日 丁未
  今日内々御寄合の事有り。公家の御事、殊に尊敬し奉らるべきの由その沙汰有りと。
  左親衛・前の右馬権の頭・陸奥掃部の助・秋田城の介等参り給う。諏方兵衛入道奉行
  たり。

[百錬抄]
  法勝寺御八講、御幸。重時朝臣関東に下向の折節、世間落居せざるの間、事を炎旱に
  寄せ、止めしめ給うと。
 

6月27日 戊申 天霽、風静まる
  合戦の後、今日評定を始めらるる所なり。神社仏寺等の事その沙汰有りと。
  着座の次第
   一方 左親衛      武蔵の守      甲斐の前司
      下野の前司    信濃民部大夫入道  清左衛門の尉
   一方 前の右馬権の頭  相模三郎入道    出羽の前司
      秋田城の介    大田民部大夫
  今日大納言法印隆弁を以て鶴岡八幡宮の別当職に補任せらる。即ち彼の御教書を件の
  宿坊に送り遣わさる。平左衛門の尉盛時御使たりと。

[葉黄記]
  相州の許に向かい、心閑かに面謁す。次いで院参し、ほぼ相州面謁の事を申す。
 

6月28日 己酉
  駿河八郎左衛門の尉胤村入道申す旨有り。亡父義村勲功を竭し奉公しをはんぬ。その
  息子として、全く謀逆を存ずべからざるの趣これを載す。盛綱執り申す。評定の次い
  でに伺うべきの由、左親衛計り仰せらると。
 

6月29日 庚戌
  上野入道日阿下総の国より参着す。これ駿河の前司義村・若狭の前司泰村二代の知音
  なり。而るに今日左親衛に謁し申す。その次いでを以て、懐旧の涙を拭い且つは述懐
  の詞を吐く。剰え日阿在鎌倉せしむに於いては、若州輙く誅伐の恥に遇うべからざる
  の由これを申す。左親衛還ってその無我を愛せしめ給うと。
 

6月30日 辛亥
  今日御所中六月御祓いを行われず。去る五日合戦の触穢に依ってなり。