1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

7月1日 壬子
  御所中の番帳これを改めらる。若州一族並びに余党数輩、すでにその闕有るに依って
  なり。陸奥掃部の助實時の奉行として、新加衆を清選す。清書に及ぶと。
 

7月2日 癸丑
  鶴岡八幡宮九月九日の神事、式日たるべきや否やの事その沙汰有り。放生会を遂行以
  後行わるべきの由治定しをはんぬ。清左衛門の尉これを奉行すと。
 

7月3日 甲寅 朝晴午後雨降り渡るが如し [葉黄記]
  相模の守重時朝臣関東に下向す。当時京都守護の棟梁無きか。
 

7月4日 乙卯
  夜に入り大納言法印隆弁鶴岡別当坊に移住すと。当職の事再往辞し申すと雖も、重ね
  て仰せ下さるるに依って此の如しと。
 

7月7日 戊午
  左親衛評定衆並びに奉行人を招請し、盃酒・椀飯等の結構有り。剰え引出物に及ぶと。

[葉黄記]
  今日御幸有るべきの由日来沙汰有り。而るに関東兵乱以後、重時朝臣下向せしめ、当
  時洛中守護の棟梁無し。且つまた炎旱の間事貴無く停止せられをはんぬ。
 

7月10日 辛酉
  相模の国一宮の椙数本焼亡す。神火かの由これを申し送る。殊に驚き御沙汰有りと。
 

7月14日 乙丑
  足利左馬の頭正義今度の合戦の賞に依って、上総権の介秀胤の遺跡を拝領す。而るを
  公私の祈祷を相兼ね、件の上分を以て大神宮に奉寄すべきの旨、左親衛に伺い申さる。
  尤も然るべきの間免許す。仍って寄進状を本宮に遣わさると。
 

7月16日 丁卯
  大納言法印鶴岡別当職に補すの後、今日始めて拝賀有り。また宮寺領武蔵の国矢古宇
  郷内、別当得分を以て御読経料所と為し、不断の大般若経転読を始め置かると。
 

7月17日 戊辰
  相州六波羅より参着す(去る三日出京)。故入道武州経時の小町上の旧宅(御所北面
  若宮大路なり)を以て居所と為す。これ前の武州禅室の跡なり。武州経時相伝せらる
  るの処、去る寛元二年十二月焼亡す。然れども元の如く新造す。この第に於いて終わ
  りを取らるるの後、今にその主無しと。
 

7月18日 己巳
  六波羅成敗の事、相模左近大夫将監長時を以て任ぜらるる所なり。彼の第に祇候すべ
  き人々に於いては、兼日仰せ定められをはんぬと。
 

7月19日 庚午
  叛逆の輩の縁者並びに所従等の事、甲乙人等の為事を左右に寄せ煩いを成すの條、甚
  だ然るべからず。早くその儀有るべからざるの旨下知を加えらるべし。承引せざる人
  々に於いては注し申さるべきの由、今日六波羅に仰せらると。
 

7月24日 乙亥
  御所を他の御地に移さるべきの由その沙汰有り。来十月十四日土木の営を始むべきの
  趣、諸御家人に催し仰せられんが為、今日彼の奉書を成さるる所なり。筑前の前司行
  泰・大曽祢左衛門の尉長泰等奉行たりと。
 

7月26日 丁丑
  左親衛の御亭に於いて御祈りを始行せらると。
 

7月27日 戊寅
  相州重時将軍家別当の連署と為る。秋田城の介義景仰せを彼の国司に伝う。即ち領状
  を申さると。