1249年 (宝治3年、3月18日 改元 建長元年 己酉)
 
 

(吾妻鏡に記載無し)
 

1月23日 [北條九代記]
  頼嗣正四位下に叙せらる。
 

2月1日 [皇年代略記]
  閑院火事。
[五代帝王物語]
  閑院は炎上ありしかば、富小路殿(冷泉富小路)内裏になる。この御所は小川右衛門
  督入道親兼の家にてありしを、北山大相国の殿に成て今皇居とはなれり。
[百錬抄] 癸卯
  子の刻、閑院内裏炎上地を払うと。主上大相国の冷泉富小路の亭に行幸す。
 

3月18日 庚寅 [皇代記]
  改元。変異に依ってなり。
[百錬抄]
  改元定めなり。宝治を改め建長と為す。内大臣已下参陣す。

3月20日 [皇年代略記]
  五條の辺火事。

3月23日 [五代帝王物語]
  大焼亡有て京中半に過て焼たり。北は押小路、南は八條、西は洞院、東は河原に至る。
  結句は河原を吹こして、火焔飛来て蓮華王院の塔に付て、やがて御堂に移る。中尊は
  出しまいらせて、千體の御佛もわづかに二百余體とかやぞ取出しまいらせける。(略)
  さてこの火また新熊野の鐘楼宝蔵などに吹付て焼ぬ。すべて公卿の家だにも十余所、
  雲客以下は数を知らず。
[百錬抄] 乙未
  午の刻ばかり、炎上姉小路室町に起き、時に風四方に吹き散らす。煙九重に充満す。
  三條以南・八條以北・西洞院以東・京極以西(五條以南河原に及ぶ)余焔遙かに飛ぶ。
  蓮華王院に付き、御堂以下この日悉く焼亡す。
 

4月4日 乙巳 [百錬抄]
  関東の飛脚到来す。閑院殿を造進すべきの由これを申す。
 

5月27日 戊戌 [皇年代略記]
  後嵯峨第三子誕生(亀山院)、母は大宮院。
[百錬抄]
  大宮院皇子御産。

5月28日 己亥 [百錬抄]
  皇子御湯殿始めなり。
 

6月4日 [北條九代記]
  重時陸奥の守に任ず。

6月14日 [北條九代記]
  時頼相模の守に任ず。

6月16日 [北條九代記]
  頼嗣左近中将に任ず。
 

7月20日 己丑 [百錬抄]
  佐渡院追号の事を行わる(順徳院)。
 

8月*日 [北條九代記]
  重時出家、法名観覺。

* 近日、山門衆徒蜂起す。天王寺別当山に付けらるべし、また一品親王山に置かるべき
  の由訴え申すと。
 

11月23日 [北條九代記]
  永福寺供養。導師は隆弁法印(若宮別当)。
 

12月13日 [北條九代記]
  引付頭人を始めらる。政村(一)、朝直(二)、眞昭(三)。