1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

2月5日 辛丑
  諸国の守護・地頭・御家人等、六波羅の召符に背く由の事その沙汰有り。向後此の如
  きの輩に於いては、罪科に処せらるべきの由仰せ出さると。
 

2月8日 甲辰
  相州病気を扶け大倉薬師堂に参らる。聊か霊夢の告げ有るに依って、殊に信心を抽ん
  ぜらると。
 

2月12日 戊申
  相州鶴岡八幡宮に於いて祈祷を行わると。
 

2月18日 甲寅
  相州出仕し給う。日来聊か不例。今に於いては殊なる事無きか。
 

2月23日 己未
  鶴岡の別当法印(隆弁)申す園城寺を興隆すべき由の事、清左衛門の尉の奉行として、
  今日その沙汰有り。当寺の事は、関東代々の御帰依他に異なり、殊に御助成有りと。
 

2月26日 壬戌
  将軍家文武の御稽古有るべきの由、相州消息状を以てこれを諫め申せしめ給う。和漢
  の御学問の為、則ち縫殿の頭・参河の前司。弓馬の御練習の為、また秋田城の介・小
  山出羽の前司・遠江次郎左衛門の尉・武田の五郎・三浦の介等、常に御所中に祇候せ
  しめ、各々召しに随うべしと。また和泉の前司・武藤左衛門の尉の奉行として、人々
  の子息の中好文並びに器量の士を撰び試み同学に候すべきの趣、内々これを仰せ付け
  らると。