1251年 (建長3年 辛亥)
 
 

5月1日 庚申 天霽
  相州室家の産所(松下禅尼甘縄の第)御祈祷等の行を始めらると。
 

5月3日 壬戌 天陰
  若宮御前俄に不例、頗る御辛苦。諸人営中に群集し周章すと。
 

5月5日 甲子
  入道相模の三郎平資時(法名真昭)卒す(年五十三)。修理権大夫時房朝臣の三男な
  り。三番の引付頭人なり。
 

5月8日 丁卯
  河越修理の亮重資を以て、去る貞永元年十二月二十三日の廰宣に任せ、武蔵の国惣検
  校職に補せしむべきの旨仰せ出さると。
 

5月14日 癸酉 天晴
  彼の御産の事、明日酉の刻たるべきの由、若宮の別当法印(隆弁)申せらるるに依っ
  て、参集の人々悉く退散すと。
 

5月15日 甲戌 天晴、風静かなり
  今朝、相州安東の五郎太郎を以て御使と為し、御書を若宮の別当法印(隆弁)に送ら
  る。称く、女房産の事、日来今日たるべきの由仰せらるると雖も、今にその気分無き
  の間、御存知の旨頗る不審と。返報を献りて申す。今日酉の刻必定たるべし。御不審
  有るべからずと。申の刻に於いて漸く御気分出現するの間、医師典薬の頭時長朝臣・
  陰陽師主殿の助泰房・験者清尊僧都並びに良親律師等参候す。酉終わりの刻、法印(隆
  弁)参加してこれを加持し奉る。則ち若君誕生す。奥州兼ねて座せらる。この外御一
  門の老若、惣て諸人の参加勝計うべからず。頃之御験者以下の禄、各々生衣一領・野
  劔一柄・馬一疋を賜うべきなり。時に三浦の介盛時(白の直垂)馳参す。抃悦の余り、
  騎用の所の馬、銀鞍を置くを以て、自ら泰房に引き與えしむ。これ名馬なり。大嶋鹿
  毛と。抑もこの誕生祈祷の事、相州若宮の別当法印に対し等閑ならずこれを付け示さ
  る。仍って鶴岡八幡宮の宝前に於いて、去年の正朔より丹誠の肝胆を砕く。夢の告げ
  これ有り。同八月妊ぜしめ賜うべきの由申せらるの上、今年二月、伊豆の国三嶋社壇
  に侍して祈請するの間、同十二日寅の刻夢の告げに、白髪の老翁法印曰く、祈念の所
  の懐婦、来五月十五日酉の刻男子を平産すべきなりと。果たして旨の如し。奇特と謂
  うべきか。
 

5月21日 庚辰
  七夜の事、奥州経営を尽くせしめ賜うと。
 

5月27日 丙辰 天晴
  新誕の若君公本所に帰住せしめ賜う。その後御祈りの賞に募り、能登の国諸橋保を以
  て、若宮の別当法印に避けらる。工藤三郎左衛門の尉光泰御使たり。相州の御書に云
  く、今度の男子平産、併しながら法験の致す所なり。就中兼日の仰せ一事も相違無し。
  言語の及ぶ所にあらずと。今夕酉の刻南風悪しく、由比浜の民居焼亡す。御所の南に
  延び隣の人家に到る。則ち南面棟門の災難、今の営中希有にして余炎を逃がると。
 

5月29日 戊子 天霽
  相州室御産の後痢病の悩み有り。すでに数日に及ぶ。然るに押して沐浴の事有りて、
  忽ち減気有り。これに属き賜うべきの由別当法印に申せらる。産穢幾ばくならずと雖
  も、産所に入り加持を為さるべきの由、相州頻りに御所望有るに依って、則ち参入し
  加持し奉ると。