1251年 (建長3年 辛亥)
 
 

6月5日 甲午 天霽
  評定有り。この事毎度、日来盃酒・椀飯等の儲け有り。また炎暑の節に当たりては、
  富士山の雪を召し寄す。珍物を備えんと為す所なり。彼是以て民庶の煩い休むこと無
  し。これを止めらる。善政随一と。次いで五方引付、更にこれを結番せられ六方と為
  す。秋田城の介義景軽服の後、始めて出仕し、この事を奉行すと。
  その番文に云く、
  一方
   前の右馬権の頭政村  常陸入道行日    大曽祢左衛門の尉長泰
   山城の前司俊平    新江民部大夫以基
  二番
   武蔵の守朝直     大田民部大夫康連  武藤左衛門の尉景頼
   中山城の前司盛時   山名の進二郎行直
  三番
   尾張の前司時章    対馬の守倫長    清左衛門の尉満定
   長田兵衛太郎廣雅   越前の四郎経成
  四番
   摂津の前司師員    出羽の前司行義   伊勢の前司行綱
   山名中務俊行     皆吉大炊の助文幸
  五番
   伊賀式部大夫入道光西 秋田城の介義景   伊豆の前司行方
   明石左近将監義綱   内記兵庫の允祐村
  六番
   信濃民部大夫入道行然 筑前の前司行泰   甲斐の前司泰秀
   越前兵庫の助政宗   大田太郎兵衛の尉康宗
 

6月10日 己亥
  貴処伺候の女房に於いては、領家の号有るべきの旨これを定めらると。また曰く、百
  姓と地頭と相論の事、別して奉行人を差し、委細の尋ね聞こし食さるべきの由を定む
  と。
 

6月13日 壬寅 [百錬抄]
  今日より新造の閑院に於いて御読経を始行せらる(三ヶ日)。
 

6月15日 甲辰
  摂津の前司師員朝臣病痾に依って出家を遂げらる。法名行厳と。
 

6月19日 戊申 天晴
  若君御前の不例平減せしめ賜うと。
 

6月20日 己酉
  引付の事これを結番せらると雖も、重々その左右を歴られ、六方を縮め三方にせんと
  欲す。
  一番
   前の右馬権の頭  摂津入道     和泉の前司    筑前の前司
   大曽祢左衛門の尉 清左衛門の尉   中山城の前司   明石左近将監
   対馬左衛門の尉  越前の四郎
  二番
   武蔵の守     出羽の前司    伊賀式部大夫入道 大田民部大夫
   対馬の守     武藤左衛門の尉  山城の前司    越前兵庫の助
   皆由大炊の助   進士次郎蔵人   山名の進次郎
  三番
   尾張の前司    信濃民部大夫入道 秋田城の介    常陸入道
   伊勢の前司    山名中務の丞   伯耆右衛門の尉  内記兵庫の允
   長田兵衛太郎
 

6月21日 庚戌
  閑院殿末役所の事その沙汰有り。これを施行せらる。所謂築壇百七十八本、この内小
  路面十本(在家立てず)・二條面七十二本・油小路面六十一本・二條より北油小路西
  西洞院面三十五本(以上新造)。また神社・仏寺領の外、悉く所課を弁勤すべきの由、
  同じく仰せ下さる。御教書に云く、
    造閑院殿用途の事
   右仏神の田に於いては、本よりこれを除かる。その外に到りては、地頭に済せしめ、
   加徴の所々はその沙汰を致すべきの由、各々下知を加うべきの状、仰せに依って執
   達件の如し。
     建長三年六月二十一日     相模の守
 

6月22日 辛亥 小雨
  前の摂津の守正四位下中原朝臣師員(法名行厳)卒す(歳六十七)。助教師茂の男な
  り。
 

6月26日 乙卯 小雨降る
  冷気尤も甚だし。氷有り冬天の如しと。
 

6月27日 丙辰 [百錬抄]
  閑院遷幸の儀なり(関東よりこれを造進す)。記録所始めなり。