1251年 (建長3年 辛亥)
 
 

12月2日 丁巳
  宮内少輔泰氏朝臣、所領下総の国垣生庄に於いて、潛かに出家を遂げらる(年三十六)。
  即ち年来の素懐を遂ぐと。偏に山林斗藪の志を挟むと。これ左馬の頭入道正義の嫡男
  なり。
 

12月3日 戊午
  鎌倉中の在々処々、小町屋及び売買設の事、禁制を加うべきの由、日来その沙汰有り。
  今日彼の所々に置かれ、この外は一向停止せらるべきの旨、厳密の触れ仰せらるるの
  処なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。
  鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々
   大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上
   牛を小路に繋ぐべからざる事
   小路は掃除を致すべき事
     建長三年十二月三日
 

12月5日 庚申
  諏方兵衛入道の辺聊か物騒す。夜半の刻人々小具足を加え、相州の御第の門前に於い
  て窺い参る。その実無きに依って悉く退く。且つはまた制止を加えらると。凡そ巷説
  一に非ずと。
 

12月7日 壬戌
  宮内少輔泰氏自ら出家の過を申す。これに依って所領下総の国垣生庄これを召し離た
  る。陸奥掃部の助實時これを給う。これ不諧の上、小侍別当の労危うきに依ってなり。
  当庄は泰氏朝臣始めて拝領するの地なり。始めて入部するの刻、この処に於いて素懐
  を遂げること有り。不思議とはこれを謂わざんや。然るを泰氏朝臣各々以て相州の縁
  者たり。その上父左馬の頭入道は関東の宿老たり。頻りに子細を申し嘆くと雖も、人
  に依って法を極むべからざるの由御沙汰に及ぶと。
 

12月12日 丁卯
  相州の御第に大般若経を転読す。諸願有りと。
 

12月17日 壬申
  将軍家御方違えとして武蔵の守朝直の第に入御す。
 

12月22日 丁丑
  鎌倉中故無く物騒在り。謀反の輩の由巷説相交る。幕府並びに相州御第の警巡頗る厳
  密と。
 

12月26日 辛巳 雹降る。地に於いて積もるの事三寸
  今日未の刻の一点に及んで世上物騒なり。近江大夫判官氏信・武蔵左衛門の尉景頼、
  了行法師・矢作左衛門の尉(千葉の介近親)・長次郎左衛門の尉久連等を生虜る。件
  の輩謀叛の企て有りと。仍って諏方兵衛入道蓮佛の承りとして、子細を推問す。大田
  の七郎康有をして詞を記す。逆心悉く顕露すと。その後鎌倉中いよいよ騒動す。諸人
  競い集まると。
 

12月27日 壬午 天晴
  謀叛の衆を誅せらる。また配流の者有りと。近国の御家人群参すること雲霞の如し。
  皆以て帰国すべきの由仰せ出さるるなり。

[北條九代記]
  佐々木近江の守氏信・城丹後の守景頼、了行法師を召し取りこれを進す。仍って騒動
  す。これに依って光明峯寺禅定殿下の御一族の僧俗多く勅勘を蒙る。但し二條殿御父
  子その災いを脱れ給う。