1252年 (建長4年 壬子)
 
 

2月1日 乙卯 天晴
  巳の一点日三分正現す。

[百錬抄]
  日蝕正現す。大原野祭延引す。
 

2月8日 壬戌 天霽
  子の刻焼亡。西は壽福寺前、東は名越山王堂前、南は和賀江、北は若宮大路上、その
  内残る所無しと。
 

2月10日 甲子
  鎌倉中小路を狭めるの事、承るの旨無き鞍置き馬常に後立の事、飛脚不日に出来する
  の時田舎に於いて立てるの事、この條々殊に誡めの御沙汰に及ぶ。保々奉行人等に仰
  せ付けらるる処なり。
 

2月12日 丙寅 天晴
  関東安全の御祈りの為、相州の御第に於いて如意輪法を行わると。
 

2月19日 [増鏡]
  都をいで給ふ。その日、将軍の宣旨かうぶり給ふ。かかるためしは、いまだ侍らぬに
  や。上下、めづらしく、おもしろき事にいひさわぐべし。御迎に、あづまの武士ども、
  あまたのぼる。六波羅よりも、名あるもの十人、御送にくだる。上達部・殿上人・女
  房など、あまた参るも、院中の奉公にひとしかるべし。(略)院のうへも、しのびて
  粟田口のほとりに、御車たてて御覧じおくりけるこそ、あはれにかたじけなく侍れ。
  きびはに美しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍も、あはれにかたじけな
  しと、思ひ聞ゆべし。
 

2月20日 甲戌
  和泉の前司行方・武藤左衛門の尉景頼使節として上洛す。これ奥州・相州、当将軍の
  執権を辞せられ、上皇第一の三宮を申すの間、御下向有るべきの由申請するに依って
  なり。その状相州自ら筆を染め、奥州加判せらるる処なり。他人これを知らずと。
 

2月21日 [五代帝王物語]
  東山殿は将軍三位中将頼嗣卿上洛の比、六十にて薨給ふ。

[百錬抄]
  法性寺禅定殿下(道家)薨ず(生年六十)。
 

2月27日 辛巳
  辰の刻京都の飛脚参着す。去る二十一日戌の刻法性寺禅定殿下薨ずの由これを申す。
  仍って奥州・相州以下人々群参すと。彼の薨御の事、説等有り。武家籌策有るべきの
  期なりと。
 

2月28日 壬午 天晴
  申の刻腰越の海上より和賀江の津に至るまで、池の水血の如し。広さ三丈ばかり。晩
  に及び消滅しをはんぬ。三河の前司教隆勘文を進すと。漢家の例有るの上、去る建保
  年中以後、この境に於いてこの変度々に及ぶと。
 

2月30日 甲申 [百錬抄]
  関東の飛脚到来す。三品親王(宗尊)征夷将軍として御下向有るべしと。